田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

星野道夫 著『旅をする木』より。幸福とはどういうものか。よく生きるとは。

 町から離れた場末の港には人影もまばらで、夕暮れが迫ってきた。知り合いも、今夜泊まる場所もなく、何ひとつ予定を立てなかったぼくは、これから北へ行こうと南へ行こうと、サイコロを振るように今決めればよかった。今夜どこにも帰る必要がない、そして誰もぼくの居場所を知らない。それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。不安などかけらもなく、ぼくは叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった。
(星野道夫『旅をする木』文春文庫、1999)

 

 おはようございます。先日、クラスの子(♂️)がひとり、他県に転校しました。普段ならお別れ会をしてみんなで送り出すところですが、何せこんな事態です。おいそれと集まるわけにはいきません。コロナ自警団に見つかったら大変ですから。そんなわけで、せめて餞別に本の一冊でもと思って購入したのが、故・星野道夫さんの『旅をする木』です。アラスカでの生活やそこに至る経緯を描いた、写真家であり言葉の人でもあった星野さんの代表作。その子のパパは転勤族なので、タイトル的にもピッタリだと思いました。

 

 旅をする父。
 旅をする子。
 

 本の中に出てくるトウヒの種子のひとつように、巡りめぐって、どこかでまた会えるといいなぁ。

 

 

 星野道夫さんの『旅をする木』には、「新しい旅」「アラスカとの出合い」「一六歳のとき」など、33篇のエッセイが収録されています。名前を挙げた3つは特に気に入っている作品です。加えて小説家の池澤夏樹さんによる解説がめちゃくちゃよい。これまでに読んだ本の中でいちばんよかったものは(?)と訊かれたら、星野さんの著作を含め、迷ってしまって答えに窮しますが、これまでに読んだ本の中でいちばんよかった解説は(?)と訊ねられたら、『旅をする木』の池澤夏樹さんの解説(!)と即答します。それくらい、よい。池澤夏樹さんはその解説のタイトルを「いささか私的すぎる解説」と名付けています。仲良しだったんですよね、二人は。

 

新しい旅

 アラスカ大学の野生動物学部に入るために、星野さんが学部長にかけあって入学を許可してもらうくだりが白眉です。だって点数が30点も足りないんです。星野さんは《わずか三十点の違いで一年を棒にふることは出来ない》と書いていますが、いやいや「わずか」じゃないでしょ。ところが学部長は星野さんの熱意に負けます。それはちょうどソフトバンクの孫正義さんがアメリカの大学の入学試験を受けたときに、試験官に辞書の使用と時間の延長を申し出て、すったもんだの末に認めさせたという話と似ています。二人とも、強引グ・マイ・ウェイだなぁ。憧れます。

 

アラスカとの出合い

 星野さんはなぜアラスカに行きたいと思うようになったのか。全てのはじまりは神田の古本屋街の洋書専門店で見つけた一冊のアラスカの写真集です。その写真集に載っていた、エスキモーの村を空撮した一枚の写真が星野さんの心をとらえます。手垢にまみれるほどその写真集を見ているうちに、曰く《ぼくはだんだんその村が気にかかりはじめていた》とのこと。星野さんは写真のキャプションに書かれていた村に手紙を書きます。村長に宛てて、たずねてみたい、と。返事は来ず。宛名も住所も不確かなのだから当然です。しかし、半年後に一通の外国郵便が届きます。いつでも来なさい、って。漫画のような展開です。星野さんがベーリング海に浮かぶ写真の村にたどり着いたのは19歳の夏。もしもあの時、あの本を手にしていなかったら。《人生はからくりに満ちている》。星野さんがそう表現するのも頷けます。

 

一六歳のとき

 冒頭の引用はこの「一六歳のとき」からとりました。星野さんにとってはじめてとなる「16歳のときのアメリカひとり旅」が描かれています。出会いを与え続けてくれたという、自由の国アメリカ。この旅を通して得た星野さんの気づきが記念碑的に素晴らしい。

 

 ぼくが暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を初めて与えてくれたのだ。

 

 素晴らしすぎますよね。6年生の国語の教科書には星野さんの「森へ」という短篇が載っています。しかし中学校へと旅だっていく子どもたちには「森へ」よりも「旅へ」というニュアンスのつまった「十六歳のとき」の方がふさわしいように思います。だから6年生の担任になったときにはいつもこの作品を紹介しています。わかる子にはわかる。わからない子はいつかわかる。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 コロナ禍を奇貨としてICTの整備が進み、PCやタブレットを一人ひとりが持つようになったら。家庭でも学校でも使えるようになったら。もしもそうなったら、国語の教科書に出てくる著者の関連作品をデータベース化して、その場で読めるようにしてほしい。そんなふうに思います。5年生の教科書に出てくる重松清さんにせよ、6年生の教科書に出てくる星野道夫さんにせよ、『カレーライス』と『森へ』だけではもの足りませんから。読むことはすべての教科学習のベースです。読むことの延長には、星野さんにとってのアラスカの写真集のように、ときに人生というスケールで行動変容を促してくれる出合いがあります。いささか私的すぎる解説の中で、池澤夏樹さんは次のように書き、友人の遺した書物のよさを伝えています。

 

 書物にできることはいろいろある。知識や情報を授け、一時の楽しみを与え、ことの道理を示し、見知らぬ土地に案内し、他人の人生を体験させ、時には怒りを煽る。しかし、結局のところ、書物というものの最高の機能は、幸福感を伝えることだ。

 

 幸福とは、どういうものか。

 

 行ってきます。

 

 

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