田舎教師ときどき都会教師

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内田良、広田照幸、髙橋哲、嶋﨑量、斉藤ひでみ『迷走する教員の働き方改革』より。失われた日曜を求めて。

 1960年代には多くの都道府県で、教員の超過勤務に対して残業代の支払いを求める裁判が続出した。その結果は、原告教員側の連戦連勝。裁判所は、教員も労働基準法の考え方でとらえるべき労働者である、という判断を下していたのである。
(内田良、広田照幸、髙橋哲、嶋﨑量、斉藤ひでみ『迷走する教員の働き方改革』岩波書店、2020)

 

 おはようございます。一昨日の日曜日に埼玉の伊奈町にある国登録有形文化財「大島家住宅主屋」を見学してきました。大島家住宅主屋は、江戸末期に建てられた民家(築200年)をリノベーションした古民家として知られ、喫茶店と相談室とコミュニティースペースをひっくるめて「紡ぎの家  大島」と呼ばれています。

 

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大島家住宅主屋と古民家喫茶店(cafe BLANCO)

 

 紡ぎの家のホームページ(https://tumuginoie-ooshima.jimdofree.com/)には、太字で「大屋根の下で紡がれる、人と人と家の時」とあります。紡ぎの家のコンセプトとされる「居場所と出番」「文化の継承」を言い換えたものでしょうか。学級づくりにもつながるコンセプトに思えます。

 このすてきなコンセプトをもつ「紡ぎの家」という場を立ち上げたのは、社会福祉士であり家族心理士でもある遠藤玉江さんです。遠藤さんは、古民家の一部屋を利用した相談活動も行っていて、主に子育てに関する相談や家族に関する相談、対人関係に関する相談を受け付けています。幸運なことに、見学時には、建物の説明だけでなく、遠藤さんの話も聞くことができました。日曜日の午後、古民家でお茶を飲みながら、場づくりの大先輩が紡ぐ言葉に耳を傾ける穏やかな時間。

 

 最高かよ。

 

 この「最高かよ」っていう日曜日の午後が、もしも臨時休校になっていなかったら土曜日も含めまるまる仕事(通知表の所見、成績、要録、授業準備、会計、次年度計画、その他もろもろ)に埋め尽くされていたのだろうなぁと思うと、何だかやりきれない気持ちになります。教員になってから十数年間、この「最高かよ」っていう瞬間を無自覚なまま失ってきたことに、大袈裟ではなく「最低かよ」っていう憤りを覚えます。内田良さんや広田照幸さんらが書いた『迷走する教員の働き方改革』を読むと、ますますその思いが強くなります。

 

 

 冒頭の文章は、教育学者の広田照幸さんが書いた、第2章「なぜ、このような働き方になってしまったのか ―― 給特法の起源と改革の迷走」から引用しました。残業代の支払いを求める裁判の結果が《原告教員側の連戦連勝》って、そんな時代があったなんて知りませんでした。不勉強が身に沁みます。

 

 では、いつから連戦連敗になったのか。

 

 給特法が施行された1972年以降というのが答えです。その日を境にゲームのルールが変わったというわけです。ルールの変更に伴う「暗澹たる未来」を予想して、給特法の成立日(1971年5月24日)に日教組が批判声明を出しています。それは《このような無定量勤務の強制が現実のものとなれば、教師の生活と健康はますます害され、その人権はジュウリン〔=蹂躙〕され、さらには教育活動を低下させ、学校教育そのものに深刻な結果をもたらすことは必定である》というもの。ムハンマドもびっくりの予言です。

 

 的中かよ。

 

 広田照幸さんは「なぜ、このような働き方になってしまったのか」を説明する主要因として、この「給特法の成立」だけでなく、労働の量、すなわち「教育改革による業務量の増加」も挙げています。

 

 では、教育改革による業務量増加の起点となったのはいつか。

 

 臨時教育審議会(臨教審)が発足した「1984年」というのが答えです。教育の自由化という方向性を打ち出した臨教審と、それに抗った文科省との間に折衷案として生まれた「個性尊重の原則」が、業務量の増加につながった。広田照幸さんはそう指摘します。

 個性尊重、いいでしょう、理想です、最高かよ。では、一人ひとりの子どもに合ったオーダーメイドの教育をするために教員を倍増してください。ロジカルに考えればそうなるところですが、もちろんそうはならず、これまで通りの予算と教員数で、個に応じた指導、個に応じた評価、問題を抱えた子どもに対する丁寧な支援を行ってください、ついでに英語もプログラミングもよろしく、というのが大枠でいうところの1984年から続いている現状です。もうめちゃくちゃです。

 

 では、どうすればいいのか。

 

 第一に、超過労働への対価を支払うこと。
 第二に、教職員定数を大幅に増やすこと。
 第三に、思い切って教師の業務を削減すること。

 

 広田照幸さんが指摘している三つの可能性です。そしてその可能性を開くためには《どういう道を選ぶにしても、たくさんの予算が必要だ》とあります。

 

 予算かよ。

 

 執筆者に名を連ねている現職教員の斉藤ひでみさんも《国や自治体が教育にどれくらい予算をかけるべきかについて、社会全体で議論できればと願う》と書いています。

 

 予算かよ。

 

 新型コロナウイルスへの対応で、これまで以上に経済がどん詰まりになっていくことが予想される中で、予算増に期待することは、なかなか難しいと考えざるを得ません。できることといえば、広田照幸さんが三つ目に挙げている「業務の削減」と、それからこの『迷走する教員の働き方改革』を職員室にいる先生たちにも読んでもらって、問題意識を共有することくらいでしょうか。 臨時休校になっているこの3月に、一人でも多くの先生がこの本を手にしてくれればいいなぁと思います。足りないようであれば、広田照幸さんの『教育には何ができないか』もお勧めです。

 

 失われた日曜を求めて。

 

 学校を、紡ぎの家に。