『とこちゃんはどこ』という絵本も、まさにそれで、デパートとか動物園とかたくさんの人がいる場所で迷子になったとこちゃんを探す。「いろんなものがある」「いろんな人がいる」というのは、自分が今いる社会について知る時の最初の入り口なのだと思います。
僕がなぜ繰り返し「大勢」を描くのかと言えば、自分が世の中の中心だとはとても思えないからです。
この世界は多様であり、自分はそのどこか端っこにいる。
~中略~
でも「端っこも世界なんだ」、そう言いたいんだと思います。
真ん中だけがエライんじゃない、端っこで一生懸命に生きている者もいるんだよ、ってね。
(かこさとし『未来のだるまちゃん』文春文庫、2016)
おはようございます。ここ1週間ほど、かこさとしさんの『未来のだるまちゃん』を読んでいました。一気に読んでしまわないように、ゆっくり、そしてじっくりと。ピアジェを読むよりも、エリクソンを読むよりも、かこさとしさんを読んだ方が「子ども」という存在をよりよく理解できるような気がします。
どれも美味しそうだなぁって思わず見入ってしまう『からすのパンやさん』のように、どれも引用したいなぁって思わず読み入ってしまう『未来のだるまちゃん』。お便りなどを通して、保護者にも紹介しようと思います。
端っこも世界なんだ。
以前、都会で6年生の担任になったときに、4月のはじめにクラスの女の子から次のようなメッセージをもらったことがあります。自己紹介カードの「担任の先生にお願いしたいこと」という欄に書かれていた「お願い」です。
うろ覚えですが「よくトラブルを起こす子や、頭のよい子だけではなくて、私みたいに目立たない子のことも気にかけてほしい」という内容。何年生くらいからそう思うようになったのだろうなぁ、と考えてしまい、何だかもう😢です。
個別にフォローしなければいけない子が増えてきたということもあって、また、教員の多くが過労死レベルで働いていているために、一人ひとりに目が行き届かないということもあって、似たような疎外感を抱いている子が、日本の小学校のいたるところにいるような気がします。
とこちゃんはどこ。
ともこさんはどこかな。
2年生の国語の教科書に掲載されている『ともこさんはどこかな』は、もしかしたらかこさとしさんの『とこちゃんはどこ』と同様に、子どもたちに「この世界にはいろいろな人がいるんだよ、そして真ん中だけがエライんじゃないんだよ、端っこで一生懸命に生きている者もいるんだよ」という価値を伝えるためにあるのかもしれません。その6年生の子の言葉を思い出しつつ、そう思いました。過去に2年生をもったときは、そういう視点はなかったなぁ。
この世界の片隅に。
もちろん道徳ではなく国語なので、『ともこさんはどこかな』を扱う単元は、話す力と聞く力を伸ばすことがねらいです。でも、かこさとしさんの思いを知ると、とこちゃんと同じようなストーリーをもつともこさんを通して、端っこも世界なんだ(!)ということを伝えたくなります。マーティン・ハンドフォードの『ウォーリーをさがせ!』も、楽しさをフックとして「端っこも世界なんだ!」を伝えるための教材に違いない、と。
教材も、
児童も、
そうやっていろいろな見方でとらえられるようになりたいものです。
目立たない子がいるわけではなく、端っこも世界なんだ(!)ということに気づかなかったり、そのことを価値づけられなかったりする担任がいるにすぎない、ということを忘れないようにしたい。今日、これから観る映画『マチネの終わりに』の原作を書いた小説家・平野啓一郎さんのアイデアでいえば、「個人」ではなく「分人」の集合体として相手をとらえられるようになりたい。
「分人」については、上記のブログにザッと書きました。ぜひ。
映画館着。楽しみだ🎵