社会保障は、労働市場の質を保つために必要なんです。考えてみれば当たり前のことです。別に福祉国家は資本主義に対抗するために生まれてきたものではない。社会福祉政策はもともとドイツのビスマルクが導入したもので、資本主義を上手く生き延びていくために必要な制度だったんです。~中略~。格差社会の中の福祉とは救済策ですが、真の福祉国家というのは困った人そのものを出さないような機能を政策として作る国ですから。
(堤未果、湯浅誠『正社員が没落する』角川Oneテーマ21、2009)
おはようございます。さかのぼること18年と4ヶ月。教育実習でお世話になった東京の小学校には、高齢者のための福祉施設(施設というか、高齢者のための教室?)が併設されていました。廊下でおばあちゃんとすれ違ったり、休み時間におじいちゃんと将棋をしたり。保育園と老人ホームがセットで描かれていた、宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』みたいなコンセプトをもった小学校でした。子どもたちはその「混ざった」環境の中で、高齢者に対する接し方や想像力を自然と身につけていたように思います。
僕らの責任は想像力の中からはじまる。
アイルランドの詩人の言葉です。子どもたちが大人になる頃には、「超」がつくほどの高齢社会を迎える日本。だからこそ「保育園+老人ホーム」や「小学校+高齢者のための福祉施設」のようなアイデアって、素晴らしいなぁと感じます。同様に「小学校+文部科学省」ってのはどうでしょうか。想像力は、混ぜたりごっちゃにしたりすることからはじまる!
ごっちゃこそ、華。
「ごっちゃこそ、華」とはいえ、さすがにこれは食べられなくて困った覚えがあります。国境の町(タイのアランヤプラテート)での出来事。ご馳走しようとしてくれたおじいさんとおばあさん、ごめんなさい。明日、隣国のカンボジアに発つので、お腹がびっくりするものはちょっとノーサンキューなんです。
そうそう、国境での「困った思い出」といえば、カンボジアからベトナムの国境を目指しているときに出会ったかわいらしい姉妹とのやりとりが忘れられません。
こんな話。
国境の手前でバスを降りて、写真の女の子にサトウキビジュースを頼みました。小学生くらいなのに働いていて偉いなぁと感心しながら、ひとり、ジュースが出てくるのを待っていると、その子の妹がお姉ちゃんと同じ笑顔でニコニコと話しかけてきます。もうすぐベトナムだ(!)という期待に胸を膨らませつつ、小確幸(ショウカッコウ、小さいけれど確かな幸せ、By 村上春樹)なひととき。
ちょっと待っていてください。
サトウキビの量が足りなかったらしく、新たなサトウキビをカットしにいくお姉ちゃん。そんなお姉ちゃんの姿を見ている妹。私のものと思われるコップには、確かにまだ半分くらいしかジュースが入っていません。
そうしたらですね、お姉ちゃんがお店の後ろでまだギコギコとやりはじめたばかりなのに、妹がその半分くらいしか入っていないコップを持ってきて、私の目の前に置いたんです。そしてそのコップの中に大量の氷をドバドバと……。あっという間にかさが増えて、一杯のサトウキビジュースのできあがり。したり顔で「とうぞ」とジュースを差し出す妹と、サトウキビを手にあっけにとられるお姉ちゃん、と私。おいおい。濃いジュースが飲みたかったのに、困ったなぁ、って困ってないけど。
おもしろかった(!)。でも、これってもしかしたら、写真のキャプションにも書いたように、変形労働時間制によって教員の勤務時間を「水増し」しようとしている文部科学省と、真面目に働き続けた挙句、おそらくは近い将来「あっけにとられる」であろう公立小学校の教員という構図を暗示しているのでは?
おいおい。困ったぞ。
給特法が教員のプライドを守っているとは思えません。変形労働時間制というアイデアが「誰も教員になりたがらない」という負のスパイラルを止めてくれるとも思えません。萩生田文部科学大臣の見立てとは違い、給特法とプライドは関係ないし、変形労働時間制は教員の没落を推し進めるだけです。冒頭の引用でいえば、困った人そのものを出さないどころか、困る人そのものを生み出すような機能をもつ政策です。文部科学省の中に小学校を併設し、政治家さんや官僚さんに教員に対する想像力を身につけてほしい、僕らの責任は想像力の中からはじまるのだから。そんなアイデアもあながち馬鹿馬鹿しいものでもないなぁなんて考えてしまうここ数日。ちょっと疲れているみたいです。
バスを降りて、あの姉妹にまた会いたいな。
元気かな。