外科医のメスは、身体中をくまなく巡り身体から嗅覚という機能を切り出すためには、結局、身体全体を取り出してくるしかないことに気づかされることになる。つまり、この思考実験で明らかにされることは、部分とは、部分という名の幻想であることに他ならない。そういうことである。
(福岡伸一『世界は分けてもわからない』講談社現代新書、2009)
おはようございます。みなさん、すでによくご存知だとは思いますが、新学習指導要領が実施される次年度からは、各教科の評価の観点がガラッと変わります。例えば、これまでは5つの観点で評価していた国語は、次年度から3観点で評価することになります。通知表もシンプルに!
これまでの国語の評価の観点
〇 関心・意欲・態度
〇 話す・聞く力
〇 読む力
〇 書く力
〇 言語についての知識・理解・技能
これからの国語の評価の観点
〇 知識・技能
〇 思考力・判断力・表現力等
〇 学びに向かう力・人間性等
これはよい変化だと思います。福岡伸一さんの本のタイトルにあるように「世界は分けてもわからない」からです。
例えば、鼻。
小さな子どもが人間の顔を描くと、鼻を部分としてとらえてしまうことがあります。鼻のまわりに輪郭を作り出したり、線を描いたりして、部分としてそれを取り出すという描き方です。長女が4歳のときに、1歳の誕生日を迎えた次女に贈ったプレゼントの似顔絵(下の絵)も、そのひとつ。味があるなぁ(親ばか)。
一方、大人は違います。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」にせよ、ヨハネス・フェルメールの「少女」にせよ、鼻に輪郭や線はありません。これらのことを例に、分子生物学者の福岡伸一さんが、著書の中でおもしろい問いを立てています。
優秀な外科医は、鼻という器官を取り出し、移植することができるか?
さて、できるでしょうか。著者は「できない」という立場をとります。部分を切り取るということは、関係を切り取るということであり、神経細胞の束が脳まで繋がっているような、嗅覚という仕組み自体を取り出すことはできないから、という理由です。いくら優秀であっても、できない。
鼻といえば、ゾウ。改めて写真でよく見てみると、嗅覚という仕組み以前に、鼻がどこまでなのかすらよくわかりません。そこは頭か(?)みたいな。もしも外科医が「やってみなくちゃわからない」と功名心にはやって鼻を取り出そうものなら、おそらくは大変なことになります。世紀末的な大惨事になるかもしれません。ゾウの悲鳴が聞こえます。
例えば読む力、或いは書く力。
作家の水村美苗さんに《読むということから、書くということが生まれる》という言葉があります。読む力と書く力はつながっている。だから人間やゾウの鼻を取り出すことができないのと同じように、優秀な教師であっても、読む力或いは書く力だけを取り出して評価することは(本当は)できない。例えば水村さんの言葉をベースにすると「読む力B、書く力A」なんて成績はおかしい。読む力がBなら、書く力もB(或いはC)。または、書く力がAなら、読む力もA。そうですよね。だからもしもお子さんが「読む力C、書く力A」なんていう成績を持って帰ってきたら、担任はかなり疲れていると思うのでぜひ労ってあげてください。間違っても職員室に怒鳴り込んだりしてはいけません。
世界は分けてもわからない。
今日、変形労働時間制を公立学校の教員にも適用可能にする「教員給与特別措置法」の改正案が、自民党文部科学部会で了承されたそうです。変形労働時間制は、労働を繁忙期という部分と、閑散期という部分に分けています。それだけでもう「NG」なのに。部分とは、部分という名の幻想であることに他なりません。だから優秀な政治家が功名心にはやってそんな制度を導入したら、世紀末的な大惨事になって、本当に、
大変だゾウ😭
🐘🐘🐘