クラブブームだった90年代前半、学生らを連れていくと、すぐ踊れる学生と踊れない学生が分かれた。連れていく前から、誰が踊れ、誰が踊れないか、見当がついた。
ゼミで優秀な発言をする学生こそ「踊れる身体」を持っていてほしいと私は望んだ。期待を抱かせる学生たちもいたが、クラブに連れていくと大方期待は裏切られた。裏切られた後、私は、裏切った彼らや彼女らの「秀逸な発言」を、「割り引いて」聞くようになるのだった。
(宮台真司『 〈世界〉はそもそもデタラメである』メディアファクトリー、2008)
こんばんは。学生時代の研究室(工学部)に、学士から修士、修士から博士と飛び級し、博士号取得後すぐに日本学術振興会の特別研究員として渡仏していった先輩(♂)がいました。研究室の教授が言うには「2回飛び級した学生はおそらく本学初」とのこと。優秀なだけでなく、踊れる身体も持っていて、想像するに、かなり「モテた」のでしょう。渡仏する前に学生結婚をして、第一子はフランスで在外出産にチャレンジしたというのだから、あっぱれ。
そして父になる。
福山雅治ではないですが、天は二物を与えずなんて嘘っぱちで、研究もプライベートも雲の上の先輩でした。その後、東京大学の准教授等を経て、現在は産業技術総合研究所の環境関係の研究部門でグループ長として活躍しています。気候変動問題をめぐる小泉進次郎環境相の言葉を借りれば「楽しく、カッコよく、セクシー」だった先輩。本人曰く「大学院に進学する前までは遊びまくっていた」云々。遊ぶ奴ほど良くデキる。
楽しく、カッコよく、セクシーに。
田舎教師のときの教え子がひとり、数年前に都会教師(小学校)になったものの、1年も経たないうちに辞めてしまいました。とても優秀な子。でもちょっと堅くて、おそらくは踊れる身体は持っていなかった子。うまく踊ることができず、「楽しく、カッコよく、セクシーに」とはいかなかったようで、2回目の春を迎えることなく田舎に帰ってしまいました。〈世界〉はそもそもデタラメである。デタラメゆえ、うまく踊れないとやっていけない。まともに生きようとするからうまく生きられない。村上春樹さんの『ダンスダンスダンス』に登場する羊男もこう言っています。
音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。
逆神議論は一口で「世の摂理は人知を超える」という具合に〈世界〉を体験する。因果応報や互酬性の如きバランスを信じない。「熱心に信仰すれば良きことがある」との観念を否定する。「世の中そもそもデタラメだ」というふうに捉える。本書のタイトルの意味は、これだ。
だから〈世界〉に開かれるために、うまく踊り続けるために映画を観る、というのが、冒頭に引用した『〈世界〉はそもそもデタラメである』です。前作『絶望 断念 副音 映画』に続く、社会学者の宮台真司さんの映画批評であると同時に実存批評でもある分厚い一冊。
〈世界〉はそもそもデタラメで、意味なんてないのだから、ゼミで優秀な発言をする学生こそ「踊れる身体」を持っていてほしい。教育の〈世界〉に換言すると、教職を希望する若者こそ「踊れる身体」を持っていてほしい。
大方期待は裏切られた。
以前に勤めていた自治体で、数年間、教員採用試験の面接官(集団面接)を務めていたことがあります。誰が優秀で、誰が踊れるのか、その見当はつきませんでしたが、誰が踊れないかの見当はつきました。踊れない(であろう)候補者には「余裕」と「オーラ」がないからです。そういう私も「踊れる身体」は持っていませんが、彼ら彼女らと違うような気がするのはそのことを自覚しているか否か。
気候変動のような大きな規模の問題に取り組むことは、楽しく、クールで、セクシーに違いない。
9月22日の国連気候行動サミットで小泉進次郎環境相が述べたという「セクシー発言」。真相はよくわかりませんが、もしも教員採用試験の面接のときに「教育改革のような大きな規模の問題に取り組むことは、楽しく、クールで、セクシーに違いありません」なんて発言する受験生がいたら、私は「最高評価」をつけるような気がします。デタラメかもしれないものの、
少なくとも「踊れる身体」は持っていそうだから。
それって、大事です。