では、こうした引用重視の文化はどこから来ているかといえば、それは『聖書』読解の伝統からだろう。かつて、神学博士たちは、自分の論述のほとんどを『聖書』からの引用で埋め尽くし、相手を論破しようと試みたものである。そして、その伝統はいまも脈々と受け継がれている。欧米人には「言葉はすべて他人(じつは神)の言葉」であり、人間のオリジナリティは言葉の運用の部分にしかないという認識があるからだ。
(鹿島茂『悪の引用句辞典』中公新書、2013)
かつて毎日新聞に載っていた、鹿島茂さんの「引用からはじまる文章」がたまらなく好きでした。悪の引用句辞典とありますが、本好きの私にとっては神の引用句辞典です。こんな文章を書きたい、そして読みたい。
引用からはじまる文章。
子どもたちの振り返り。
帰りの会のときに子どもたちが書いているその日の振り返り(短作文)とセットで、クラスの様子や教育事情などを「引用からはじまる文章」に表わして保護者に届けたら喜んでもらえるかもしれない。クレームの未然防止にも役立つかもしれない。インプットに偏りがちな読書をアウトプットするという意味でも一石二鳥だ。そう考えて「引用からはじまる文章」と「子どもたちの振り返りの縮小コピー全員分」という構成で学級便り(学級通信)を書くようになってから10数年。
ブログ感覚で書いていますよね😄
10年くらい前に担任をしたクラスの子の保護者にそう言われたことがあります。たしか家庭訪問のときに、おそらくは好意的に。両親ともに鹿島さんと同じ「東京大学」出身という噂のある、そして子どもの賢さからしておそらくそれは事実なのだろうという、聡明かつ担任を立ててくれる「よき」保護者でした。
後にも先にもその一年だけですが、その年は「毎日」お便りを書いていました(その他の年は週に一回)。始めたからには子どもたちに「継続こそ誰にでもできる独立、そして抵抗、そして、創造の方法」(By 坂口恭平、本日のTwitterより)ということを背中で伝えなければいけない。そう思っていたかどうかは定かではありませんが、とにかく子どもたちの手前やめられなくなり、引用した本は二百冊あまり。ハードすぎて授業中にときどき居眠り。そんな「自業自得」の過労死レベルな日々だったからこそ、「読んでいますよ!」と嘘でも言ってくれる保護者の存在は本当にありがたいものでした。神です。
担任を立てる保護者は、神。
引用からはじまる学級便りは、毎年おおむね好評で、読み手である保護者との関係づくりに一役買ってくれています。また、セットで載せている子どもたちの振り返りは、ブラックボックスになりがちな教室の様子を保護者に「透かして」見せる効果があって、勝手な憶測に基づく不安を取り除いてくれます。さらに、学級づくりにも役立っていて、子どもたちはそこから「書くこと」の意味や人間関係を学んでいるように思います。
例えば前々任校で担任した5年生の振り返り(二人)。
今日は「パニック」+「優しさ」について。家庭科の調理実習で「パニック」が起きたのです。お米を炊いて10分間蒸しているとき、〇〇くんが開けちゃったんです。ガーン。でも、そのせいかどうかはわからないけど、お焦げがよりたくさんついて、おいしかったです。〇〇くんが、〇〇くんのお母さん(手伝い)と一緒に来ていた妹にお米と味噌汁をあげていて、私が「優しいね」って言ったら、照れていました。本当に優しい! 今日も楽しかった!
今、この静けさの中、私たちは「本部」に向かって歩いている。2年生の列の横を通り過ぎ、5年5組は下へ下へと階段を降り続ける。そのとき私は「ハッ」と気がついた。前に〇〇さんがいるということに。私の手が勝手に〇〇さんの首の後ろへと伸びていく。〇〇さんは「くすぐったい」というそぶりを見せるものの前を見つめている。歩くのに集中しているようだ。そういうところが彼女のよいところ。私も見習いたい。以上、火災の避難訓練でした。
こんな感じの毎日の振り返り。書くことによって、そしてそれらを読み合うことによって、子どもたちのつながりがよりよいものになっていきます。書くことは「仕合わせ」につながっている。いいクラスだったなぁ、あのとき。後年、バーベキューに招いてもらえたし。娘も含め、家族全員で。
書くことは、生き方の問題である。
自分のために、書けばいい。読みたいことを、書けばいい。
ブロガーのインクさんの記事に引用されていた「書くことはたった一人のベンチャー起業」という言葉に惹かれて、先日、田中泰延さんの『読みたいことを、書けばいい』を読みました。100日前に「自分のために」書き始めたブログの一文字目が、この素晴らしい本との出会いを用意してくれたように思います。書くことが生き方の問題であるからこそ、よりよく生きたい。
ブログ100記事目、いったん、小休止!