こうした「遊びからの学び」と、「お話を聞くときは手をおひざ」とか「犬と猫はどちらが大きいですか」みたいな教育と、どちらが子どもの将来の幸せにとって有効なのかは、言うまでもありません。何度も言うけど、自分の頭が悪くても、頭が良い子と友だちになれればよいし、喧嘩が弱くても、喧嘩が強い子と友だちになれればよいんです。
東さんの言う受動性を僕なりに解釈すれば、子どもは知識やしつけから学ぶのではなく、体験から学ぶということです。体験から学んだ子だけが、知識やしつけを幸せのために役立てることができます。なぜか。理由は簡単です。「ひとを幸せにできるひとだけが幸せになれる」ことを学ぶからです。これを学べない子が幸せになることは、絶対にありません。
(東浩紀、宮台真司『父として考える』NHK出版 生活人新書、2010)
こんにちは。プリンターのインクとA4用紙が品薄になっているようです。昨日、各家庭に安否&学習状況の確認のための電話をしたところ、そんな情報が入ってきました。来たるべき新しい教育のかたちに備えて、ICT環境を整備する家庭が増えてきているのかもしれません。コロナ禍を転じて福となす。ちなみに家庭をせき立てているのは公教育ではなく、フットワークの軽い学習塾やZ会などの通信教育です。我が子も然り、教え子も然り。高校生の長女は Zoom で学習塾の先生とやりとりをし、中学生の次女はZ会のタブレットでオンラインの授業を受けています。そうなってくると、父として考えなければいけないことは、学習の個別化が孤立化にならないようにするための手立てと、頭が良い子や喧嘩の強い子と友だちになる力をどうやってつけたり伸ばしたりしていくのかということです。ちょっと難しいなぁ。
批評家の東浩紀さんと社会学者の宮台真司さんの共著『父として考える』を再読しました。仕事モードから子育てモードに入った、二人のスターによる対談です。職員室で二人の名前を出しても誰も反応してくれないので、そのスター性についてひとこと付け加えておくと、スポーツ選手でいうところのイチローと中田英寿、文学の世界でいうところのふたりの村上、学校教育でいうところの大村はまと斎藤喜博と同じようなレベルといえば、その凄さが伝わるでしょうか。とにかくビッグネームな二人です。
この対談は、東さんと宮台さんが《たがいに父になることではじめて見えてきた問題について、ざっくばらんに意見交換してみましょうか》という企画から生まれたものだそうで、09年の対談当時、東さんには4歳の娘さん、宮台さんには3歳と0歳の娘さんがいます。小学校の6年生でいうと「最高学年になることではじめて見えてきた問題について、ざっくばらんに意見交換してみましょうか」といったところでしょうか。1年生の掃除を手伝ったり、縦割り班でリーダー役を務めたりするなど、before コロナの時代における6年生のこの時期は、いわゆる読み書きそろばんだけでなく、1~5年生を「育てる」ことで新たな視点を獲得しはじめる時期でもあります。
ざっくばらんに意見交換してみよう。
1年生の教室掃除を手伝ってみよう。
学校教育が学習塾や通信教育に勝っているのは、こういった《「ひとを幸せにできるひとだけが幸せになれる」ことを学ぶ》機会に恵まれているところでしょう。グループワーク然り、縦割り班活動然り。黙っていてもたくさんの子どもがやって来る公教育のスケールメリットといえます。制度としての公教育の強みが、他者とのかかわりという体験に根ざした学びを組織できるところにあるのは間違いありません。
ちなみに10年前に書かれた『父として考える』には、《教室内で班活動を重視しなくなった》結果として、グループワークができない子どもが増えたという話が出てきます。大学生を含めた子どもたちです。班活動の有る無しといった要因だけでなく、社会の均質化などの要因も含めて、私が教員になる02年くらいまでは(今もそうかもしれませんが)、そういったソーシャル・スキルの劣化が顕著だったのでしょう。
しかしここ数年というか、ここ10年くらいは、学校現場にグループワークやワークショップ的な授業を「よし」とする流れが生まれ、確実に裾野が広がっています。熟議や対話という言葉が強調されてきたこともその流れを後押ししています。班活動やペアワークを必要としないような、教師が喋りっぱなしの一斉授業はもはや主流ではありません。 建築家の隈研吾さんの言葉をもじれば、つなぐ建築ならぬ、つなぐ教育の復権です。
京都の小学校で同じ班の女子に「こんなん、なんでわからへんのや」って言ったら、先生にすごく怒られた。できる子ができない子を教える態度も大切にされました。
教室内の班活動が重視されていたという、宮台さんの小学校時代の思い出です。曰く《これがじつにすばらしかったという思いがあります》とのこと。こういった場面の積み重ねがグループワーク能力、換言すると集団をマネジメントする力や《知識やしつけを幸せのために役立てる》力につながっていきます。ところが時代は、
つなぐ教育から、はなす(離す)教育へ。
せっかくそういった「つなぐ教育」がバージョンアップして復権してきたのに、このコロナ禍によって「はなす教育」がメインストリームに躍り出てきてしまいました。分散登校とか、オンラインでの一斉授業とか、子どもと子どもが対面で何かをするような場面をできるだけつくらないようにしてくださいとか。主体的・対話的で深い学びを目指してがんばってきたのに、ちゃぶ台をひっくり返された気分です。こうなってくると、学校は今のところ為す術なし。ちなみに昨日の文部科学省の通達には、以下のようなリスクの高い学習活動は行わないこと、とあります。すべて「他者とのかかわりという体験」を伴う学習です。
・密閉空間での音楽
・調理
・密集する活動や身体接触を伴う体育
・運動会
・文化祭
・発表会
・校外学習
・宿泊行事
東 そこで宮台さんの考えをうかがいたいのですが、小学校で班活動を重視すれば、10年、15年後には状況は改善されるのでしょうか。
宮台 いや、むしろ問題は親ですよ。
結局、親。やっぱり、育て方。
with コロナの時代、子どもたちは教育のかなりの部分を「親」に頼らざるを得ません。集団での体験を提供すべく、微力ながらがんばってきた学校の力も、しばらくは発揮されないでしょう。そんなわけで、時間的にも割合的にも、これまで以上に「親」の力が大きくなっていきます。学校が力を発揮できなくなることで、子どもたちからどんな力が失われていくのか。そのことを踏まえた上で、親にできることは何なのか。難しいなぁ。でも、ヒントの一部は『父として考える』にあります。宮台真司さんの子育て指南書『ウンコのおじさん』と合わせて、この連休に、ぜひ。
父として考える2~思春期編~。
そんな副題の新刊を期待しつつ。