そこにはいわば、喰う/喰われる関係が、極限の愛のかたちとして投げだされていたのかもしれない。王蟲と粘菌とが合体して腐海の森をあらたに創造する現場には、さらに壮大なスケールをもって、この喰う/喰われる関係をめぐるドラマがくり広げられているはずだ。森の人はいう、「食べるも 食べられるも この世界では同じこと 森全体がひとつの生命だから……」と。ひとつの生命としての森=腐海にとっては、王蟲や粘菌や人間を分かち隔てる境界それ自体が無効を宣言される、ということだろうか。
(赤坂憲雄『ナウシカ考 風の谷の黙示録』岩波書店、2019)
こんにちは。もうすぐ週末ですね。昨夜は前の前の学校で一緒に働いていた先生たちと久闊を叙して、駅近にある居酒屋のテラスで乾杯してきました。週末ではなく「終末」になると人生が輝くといいます。3月1日付けの英紙「Express」によると、新型コロナウイルスの流行は『ヨハネの黙示録』に記されている終末の状況と酷似しているとのこと。もう4人で会えることはないかもしれないねぇ、なんて縁起でもないことを口にしながら昔話に花を咲かせました。
ヨハネの黙示録。
日本人にとっては、特に風の谷のナウシカ世代にとっては、赤坂憲雄さんのいう『風の谷の黙示録』の方がピンとくるかもしれません。
ナウシカ「きっと 腐海そのものが この世界を浄化するために生まれたのよ」
アスベル「そうだとすると 僕らは滅びるしかなさそうだな」
ナウシカ「私たちが 汚れそのものだとしたら……」
今週末、首都圏では外出自粛要請が出されています。私たちが汚れそのものだとしたら、移動制限を行った中国やイタリアで観察されているように、大気中にある汚染物質の激減が期待できるかもしれません。新型コロナウイルスという人類の大敵によって地球環境が改善するという腐海的な現象。きっと、コロナそのものが、この世界を浄化するために生まれたのよ。赤坂憲雄さんの『ナウシカ考 風の谷の黙示録』を読むと、そんなふうにも思えてきます。
いま、ジルが問いかける、この汚染された星を浄化するために、腐海が生まれてきたというのか、と。それにたいして、いまだ仮説にすぎないが、ナウシカはどうやら直観で、それを見抜いている、とユパはこたえる。やがて、ナウシカは旅立ってゆくが、それはあたかも、ユパとジルの思いを受けて、腐海の謎を解くための旅へと促されていたかのようだ。
もしもナウシカがカメラを持っていたら。
ここで勝手に仮定します。わたしの都合です。もしもナウシカがカメラを持っていたら。カメラを手にしたナウシカは、腐海の謎を解くために、この汚染された星に残る「美しさ」を写真に収めながら旅を続けたのではないでしょうか。
前の前の学校で子どもたちが撮った写真です。撮ることは知ること。知ることは背負うこと。故郷に残る自然を探して撮って、それに言葉を添えて伝えることで、腐海化を避け、環境保全に役立てようという総合学習です。生活科の「春を見つけよう」みたいな授業でもそうですが、カメラを渡しただけで子どもたちの意欲がグンと増すんですよね。そうなると担任の仕事は「壊さないでね」と念押しすることと、撮ってきた写真にひたすら「感心する」ことだけになります。カメラも地球も「好きになるのなら早ければ早いほどよい」というわけです。
子どもの撮った写真って、めちゃくちゃおもしろいんです。理科の観察で「よく見て、発見するために描く」というのがありますが、その場合の「発見」は、担任があらかじめ把握しているものがほとんどです。いわゆる指導事項です。でも、この「よく見て、発見するために撮る」学習では、子どもたちが、こちらの予想もしない世界を切り取ってきます。そこがたまらなくおもしろい❗
写真につけるキャプションも大事です。写真家の幡野広志さんは《写真は添えられる言葉で印象がかわる。焼き肉だってタレで印象はかわるのだ。だから言葉とタレを大切にしなければいけない。言葉とタレで決まるといっても過言ではない。写真に言葉がかさなって、ようやく作品として完成をする》(幡野広志のことばと写真展より)といいます。相変わらず、比喩がステキ。
この写真に「自粛要請」とつけるのか、それとも「コロナ収束」とつけるのか。言葉次第で印象はガラッと変わります。実際のところは「久闊を叙する」です。写真を撮ったり、言葉を添えたり。写真展を開いたりもしたね、そのための宣伝活動をこの居酒屋の近くでやったりもしたね。昨夜、そんな話をしました。昨日の夜は、前の前の学校の先生たち。そして明日の夜は、前の前の学校の子供たちと会う予定でしたが……。
週末、首都圏の「自粛要請」を受けて。
「道徳でいうところの葛藤場面ですね、大人になった〇〇さんがどう判断するのか、もと担任としてはちょっと楽しみです」。クラス会を企画してくれた教え子にそんなメーセージを送ったところ、正しく判断して「延期」となりました。10年前の教え子で、今年20歳になった子どもたち。もうすっかり大人です。
どんな旅をして、大人になったのか。
聞ける日が早くやって来ますように。