田舎教師ときどき都会教師

読書のこと、教育のこと

辻仁成 著『ガラスの天井』より。小説家辻仁成のゼロ地点を物語るエッセイ集。

 僕達は、何人もの人達と出会っては別れていく。生きている限り、何処かで誰かと会ってしまう。そして何処かに、大切な人達を置き去りにしてしまう。僕達は小さな頃からそれを繰り返してきた。小学校の頃、とても仲のいい友達がいた。席替えがあるまで、僕は毎日その子と遊んでいた。テレビのことや、マンガのことをよく話していた。ところが、席替えのあと、僕は隣の席の別の男の子と仲良くなってしまい、最初仲良くなった子とは疎遠になってしまった。数ヶ月が過ぎ、僕は教室の反対側、校庭をのぞむ窓の側にその子がまた別の友人達と仲良くしているのを見つけてしまう。そして、胸の中に急速に黒い穴ぼこが広がっていくのだ。あの頃、と考えてしまう。あの頃、僕達はあんなに仲良く遊んでいたのに、と悲しみにうちひしがれるのだ。今更のこのこその子の前に行って、また遊ぼうよ、とは言えずに……。
 そういう思いを、僕は、胸に抱きこの年まで生き続けている。
(辻仁成『ガラスの天井』集英社文庫、1997)

 

 おはようございます。異動したからでしょうか。前任校の同僚や前々任校の同僚、それから、そんな言葉はないかもしれませんが、「前前々任」校の同僚のことを思い出し、辻仁成さんが小学生のときの友達に対してそう感じたように、《あの頃》と考えてしまうことがしばしばあります。あの頃、僕達はあんなに仲良く働いていたのに。同じ時を吸い込んでいたのに。もしかしたら前前前世でも仲が良かったかもしれないのに。

 

 なぜ、疎遠になってしまうのか。

 

 誰かが言っていたように、会おうと思えばいつでも会えると思える人には絶対に会えないためかもしれません。そういう思いを、私は、胸に抱きこの年まで生き続けています。だからこそこう思います。

 

 また会おうよ。

 

 

 辻仁成さんの『ガラスの天井』を再読しました。ここ最近、辻さんのエッセイ集を読み返していて、これで4冊目です。最初に読んだのは、どれも20年くらい前でしょうか。全く覚えていない話と、すぐに「あっ、これ読んだな」って記憶が甦る話が混在しているから不思議です。

 

 例えば、血液型の話。

 

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 詩人のA氏が突然スタッフの一人に向かって、あなたの血液型は何型? と切り出した。僕はその瞬間、いつも感じるあの耐えられない嫌悪感をまた感じてしまったのだ。場は非常に和んでいて、申し訳ないとは思ったのだが、僕はやはりあえてその問いかけに文句を言ってしまった。
「血液型で人を区別するのは、やめようよ」

 

 エッセイ「他人の見方」より。そうそう、辻さんは「血液型は何型?」という話題を嫌悪していたな、と思い出しました。O型の辻さん曰く《人間のパターンは、人間の数だけ存在するはずだし、地球はそれら無数の個性で成り立っていることを忘れたくない》云々。個性に重きを置く辻さんらしい見方です。とはいえ、

 

 私はそうは思わない。

 

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 伊坂幸太郎さんの『逆ソクラテス』に出てくる名台詞《僕はそうは思わない》を使ってみました。私は「血液型 ≠ 人間のパターン」とは思っていません。ほんの少しは、関係しているのではないか、と。もちろん、血液型で相手のことを判断したりはしませんが、経験上、例えば「A型の子が多いクラスはもちやすい」とか、「A型が多くてしかも長男長女が多いとさらにもちやすい」とか、そういった傾向のようなものはあるのではないかって、そう考えています。A型って、真面目なんですよね。

 

 私です。

 

 僕は今、三十二歳だが、こと女性に関してはまったく節操がない。寂しがり屋で強がりな僕には、そばに女性がいなくては生きていけないほど弱いところがあるくせに、いつまでも落ち着くことがないのだ。最近も友人達に叱られた。人でなしと言われ、薄情者と罵られた。まだ愛の遍歴を重ねる気なのか、とある人にも厳しく言われたばかりなのである。

 

 エッセイ『愛の遍歴』より。これは全く覚えていませんでした。血液型の話につなげると、次のようになるでしょうか。辻仁成は愛の遍歴を重ねる。一般人だけでなく、A型の南果歩さんやO型の中山美穂さんのような大女優とも愛の遍歴を重ねる。彼はO型である。ゆえにO型は不真面目である。O型って、不真面目なんですよね。

 

 私はそうは思わない。

 

 どこからかそんな声が聞こえてきました。逆ソクラテスでしょうか。その三段論法は間違っている、と。すべての人は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ。

 

 それなら正しい。

 

 そう考えれば、生の意味も見えてくる。死という回避できない出口が決まっているからこそ、人はむきになって今を生きるのである。限りがあるというはかなさは、蝋燭が、燃え尽きる瞬間に一層美しく炎を上げるのに似て、同時に生に美しさを与えるものである。

 

 エッセイ「死という入口」より。辻さんは、死という入口に立っていることを意識している。限りがあるというはかなさを感じ取っている。だからこそ個性や出会い、そして愛を大切にしながら、常識にとらわれることなく、むきになって今を生きているのでしょう。それが小説家辻仁成の、

 

 ゼロ地点である。

 

 そういったことがよくわかる、著者初のエッセイ集です。特に、辻さんのことを知らない人は、ぜひ。

 

 

 今週は、振休なしの土曜授業の翌週にあたる週なので、朝からすでにくたくたです。ガラスの天井どころではありません。ただただ地べたです。あと二日、金曜日の夕方という入口に向かって、

 

 むきになって今を生きます。

 

 

 行ってきます。