理由なんてなんでもよかった。危険とか、ダメとか言われれば、それをしたくなるのが子供であった。今思えば、危険こそが一番の教育者であった。危険が僕等に教えてくれたことは大人になって本当に役に立った。ダメと言われて、それをしない子には、優等生になる素養はあっても、人生の枠を飛び越える度胸や器は得られないのかもしれない。町中に聳える立ち入り禁止の看板は、そこに僕等にとってはもっとも素晴らしい遊び場があることを教えてくれる目印でもあった。
(辻仁成『そこに君がいた』新潮文庫、2002)
おはようございます。危険とか、ダメとか言われたときに、それをしたくなるのが子どもだとしたら、それをしたくならないのが大人ということになるでしょうか。言い方を変えると、
子ども心の有無。
辻仁成さんは『ミラクル』に《子供の頃はあったのに、大人になると無くなってしまうものがたくさんある。それらを幾つ無くしたかで、人はどれほど大人になれたかを計るようだ》と書いています。大人になると無くなってしまうもののひとつが「子ども心」でしょう。それは「好奇心」と言い換えることもできます。だからこう思います。ダメと言われても、それをしたくなる「子どもみたいな大人」の方が、あるいは、子ども心を無くすことなく「大人にもなった大人」の方が、人生の枠を飛び越える度胸や器をもっていて、
おもしろい。
おそらく辻さんはそういう大人のひとりでしょう。生前、90歳代になっても好奇心を失うことなく生きていたという、故・外山滋比古(1923 ー 2020)も間違いなくそういった大人のひとりです。なぜそう思うのかといえば、二人には共通点があるからです。前者曰く《危険こそが一番の教育者であった》云々。後者曰く《こどもには適度の危険教育は必要ではないのか》云々。二人とも「危険」と「教育」は切っても切り離せないものとして考えていたというわけです。切っても切り離せないというか、むしろ、
切り離してはいけない。
冒頭に引用した文章には、僕ではなく《僕等》とあります。僕ではなく「僕等」だったから危険に立ち向かうことができた。そこに「君」がいたからダメと言われても勇気をもって挑戦することができた。そういうことでしょう。
そこに僕はいて、君がいた。
辻仁成さんの『そこに君がいた』を読みました。昨日のブログで紹介した『そこに僕はいた』と対になるエッセイ集です。マルティン・ブーバーの『我と汝』をもじれば、
僕と君。
辻仁成さんの『そこに君がいた』再読。昨日、同著者の『そこに僕はいた』を再読し、こちらもまた読み返したくなった。ブーバーの『我と汝』的な一冊。《今思えば、危険こそが一番の教育者であった》とある。クレームを恐れ、子どもたちから《危険》を根こそぎ奪ってしまった現代の教育を問う。#読了 pic.twitter.com/w2i9vbby41
— CountryTeacher (@HereticsStar) April 12, 2025
『そこに僕はいた』と同様に、『そこに君がいた』でも、辻少年は喧嘩をしたり悪さをしたり、子ども心をフルオープンにして、友達と一緒に毎日を冒険の如く楽しみます。例えば、以下。タイトル「平和町山賊団」からの引用です。
車の排気孔に石を詰めたり、家中の鍵穴を接着剤で埋めたり、自転車の空気を全て抜いたり、配られた新聞を隠したり、社宅の門を紐で縛って開かなくしたり、給水塔の中に赤い絵の具を流し込んで水道水を真っ赤にしたり、全員を引き連れて家出をしたり、新聞配達の青年を襲撃したり、あの頃僕たちは思いつくかぎりの悪さを実行した。
その度、僕は母さんに大目玉を食らわされ、会社から帰ってきた父さんに殴りつけられた。でもそれらは今思えば、とても健全なことでもあった。
とても健全なこと?
いやいや、なぜこれが健全なのでしょうか。もしもクラスの子が辻少年と同じレベルの悪さを実行したとしたら、洒落になりません。保護者に連絡して、学年で情報を共有して、管理職にホウレンソウしてって、
あぁ、面倒くさい。
でも、でもですよ、《危険こそが一番の教育者であった》や《こどもには適度の危険教育は必要ではないのか》という見方・考え方を働かせると、子どもたちから「危険」を根こそぎ奪い、「悪さ」をする余裕すら奪ってしまった現代の教育は、もしかしたら、
とても不健全なのかもしれない。
そう思えてしまうんです。危険こそが健全であり、安全こそが不健全なのではないか、と。
不健全に絡めて、もうひとつ。以下。タイトル「負けず嫌い」からの引用です。『そこに君がいた』の「君」に当たるのは、一馬君という負けず嫌いの、
転入生。
その時、一馬のお母さんがお菓子を持って部屋に入ってきた。泣いている一馬を見ついけて、どうしたの、と聞いた。一馬は僕を指さした。
「かずちゃんに何をしたの?」
お母さんは明らかに一馬の味方であった。最初から僕が悪いという態度であった。ありがちだな、と子供ながらにがっかりであった。この子にしてこの親か、やれやれ。
「お母さん、これは子供の問題やけん、口ばださんでください」
まあ、と一馬のお母さんは唸った。
「一馬がお友達を連れてきたから珍しいと思って期待していたのに、こんなおかしな友達を作っちゃいけませんよ。明日校長先生に抗議しときますね」
うん、不健全です。そしてこういう保護者の対応に苦労しているのが昨今の学校です。やれやれ。
「ヒトナリ! なんばしよっと。お友達が来たら、半分ずつっていつも言うとるやろ。遊びに来てくれたんだから、気兼ねさせてはいかんとよ。よかね。わかったと」
一馬はきょとんとした顔で僕とお母さんのやりとりを見ていた。母さんがお菓子を置いて出ていくと、
「辻君のお母さんは辻君のことを愛していないの?」
と聞いてきた。
「なんで?」
「だって、君が怒られてたじゃん」
うん、健全です。辻君のお母さんのような保護者が減り、一馬君のお母さんのような保護者が増えたことが、最初の話に戻ると、子どもたちから「危険」を遠ざけることになったのではないでしょうか。ちなみに一馬君は転校してきてから僅か4ヶ月で再び転校してしまいます。そして最後にこう言います。
「でも、辻君。辻君とはなんだか友達になれそうな気がしてた」
うん、健全です。
昨夕、かつての同僚に会い、ハッピーな時間を過ごしてきました。そこに僕はいて、そこに君がいた。うん、健全です。辻さんは《友達は過ぎ去っていく季節のようなものだと最初に言ったが、それはまた必ず巡ってくる季節でもある》と書いています。また必ず、
会いましょう。
今週は土曜日まで授業があります。もちろん振替休日はありません。昭和でも平成でもなく、もう令和なのに、週休一日。うん、不健全です。異動したら土曜授業がなくなるんじゃないかって期待していましたが、当てが外れました。体調を崩す危険があるので、ほんと、やめてほしい。
土曜授業こそが危険です。
行ってきます。