田舎教師ときどき都会教師

読書のこと、教育のこと

鶴見太郎 著『ユダヤ人の歴史』より。組み合わせという構造に照らしながらユダヤ史を紐解く。

重要なのは、状況に自分を合わせるということでは必ずしもないことだ。むしろ自分の特性とうまく組み合わさるところに入っていき、多少は周囲との関係で自分を「カスタマイズ」しつつも、自らの特性を維持することが周りのメリットにもなり、そのことで自らの居場所がさらに安定化するという好循環を目指すのだ。金融業で成功し、富豪として西洋社会に存在感を持つユダヤ人の存在も、こうした視点から読み解くことができる。
(鶴見太郎『ユダヤ人の歴史』中公新書、2025)

 

 こんにちは。1年前、2年前、3年前、……。4月に書いた自分のブログを読み返すと、忙殺されていて、いつも大変そうです。本年度はその「いつもの大変さ」に「異動」が加わったのだから、

 

 大変どころではありません。

 

 

 例えば、前任校では教頭と校長の2人のチェックで済んでいた学級通信が、新しい学校では5人のチェックを要するという、意味のわからなさ。疲れます。そもそも誰一人として学級通信なんて書いていなくて、「えっ、みんなは出していないのに、あなただけ学級通信出すの?」みたいなアウェイ感。疲れます。前任校では Chromebook を採用していたのに、異動先では iPad を採用していて、これまた慣れが必要で、疲れます。ペットボトルはどこに棄てればいいのか、避難訓練の経路はどこなのか、裁断機の鍵はどこにあるのか、欠席者の連絡はどこに入るのか、給食や掃除のシステムはどうなっているのか、週案はどれくらいの内容を求められるのか、ときどき教室を覗きに来るあの人は誰なのか、等々。数え始めたら切りがありません。

 

 異動は最大の研修である。

 

 とは、よく言ったもの。なにせ、このブログを書き始めてから初めての異動です。メンタルを蝕まれることのないよう、疲れを溜めることのないよう、悪循環に陥らないよう、気をつけねば。

 

 

 そう考えると、流浪の民と呼ばれるユダヤ人って、凄い。本当にそう思います。異動どころではありませんから。流浪です、流浪。あるいは流転です、流転。そんなユダヤ人に倣って、具体的には冒頭に引用した「視点」に倣って、私も新しい勤務先で自分を「カスタマイズ」しつつ、自らの特性を維持することによって周囲に貢献し、自らの居場所を安定化させるという好循環を目指すのだ(!)。鶴見太郎さんの『ユダヤ人の歴史』を読み、そんなふうに元気づけられました。愚者は経験に学び、

 

 賢者は歴史に学ぶ。

 

 

 鶴見太郎さんの『ユダヤ人の歴史』を読みました。ユダヤ人の歴史を小学生に語れるほどには知らなかったので、そして売れているようだったので、さらに《本書は、世界史やユダヤ教に関する予備知識なしでも通読できるように書かれている》とまえがきに書かれていたので、きっと読みやすいのではないかと思い、立ち読み後、購入。が、異動疲れと3000年のユダヤ史(古代王国建設から民族離散、ペルシア・ローマ・スペイン・オスマン帝国下の繁栄、東欧での迫害、ナチによる絶滅計画、ソ連・アメリカへの適応、イスラエル建国、中東戦争まで)は相性がよくなかったようで、読み進めるのが大変でした。

 

 

 目次は以下。

 

 序 章 組み合わせから見る歴史
 第1章 古代 王国とディアスポラ
 第2章 古代末期・中世――異教国家のなかの「法治民族」
 第3章 近世――スファラディームとアシュケナジーム
 第4章 近代――改革・革命・暴力
 第5章 現代――新たな組み合わせを求めてあ
 むすび
 あとがき
 参考文献
 ユダヤ人の歴史 関連年表

 

 読むと、異動ではなく移住は最大の研修とばかりに、祖国をもたないユダヤ人の集団が《居住国と折り合いをつけながら、自らの原則は貫く》という生き方を続けてきたことがわかります。読み進めるのが困難になるくらい、移住・流浪・流転が多いこともわかります。そしてこう思います。新しい環境に適応するたびに強くたくましく賢くなっていったのだろうな、と。ではいったい、そのようなハードな生き方を通して、

 

 ユダヤ人は何を手にしてきたのか。

 

 本の帯でいうところの《流転の果てに手にしたものとは》何なのか。その問いに迫る際、ポイントとなるのは、

 

 組み合わせ。

 

 組織開発の専門家である勅使川原真衣さんが最近よく使っているワードです。勅使川原さん曰く《巨人の肩に乗るならば、スピノザが『エチカ』において、そのもの自体はどれも完璧であり、良し悪しというのは組み合わせの問題だと語ったとおりである》云々。異動によって好循環が生まれるのか、あるいは悪循環が生じるのか、それもすべて、

 

 組み合わせ次第。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 なぜ「めちゃくちゃとしか思えない」ホロコーストがあったのか、なぜイスラエルは「めちゃくちゃとしか思えない」武力行使を続けているのか、そういった「なぜ」はユダヤ人と世界史との折々の「組み合わせ」を精査し、積み上げていかないとわからない。それが著者である鶴見太郎さんの見方・考え方です。以下は第3章の「近世――スファラディームとアシュケナジーム」より。

 

 経済が好調であるときはその潤滑油となり、直接的な利益を得る身分や階層からは重宝され保護されるが、不況になり、その保護が行き届かなくなると下層からの怨念を真っ先に浴びせられることになりがちなのがこの中間マイノリティだ。単なる上下関係で抑圧されるというのではなく、まさに三者関係という組み合わせの中でその運命が左右されるのがポイントだ。
 世の中の差別や迫害にはさまざまな原因があり、一概に法則化することはできない。しかしユダヤ人に関していえば、こうした組み合わせという構造に照らすと、ユダヤ人がなぜあるときはそれなりに繁栄し、またあるときは徹底して迫害されるのかが見えやすくなる。第4章で扱うホロコーストという最大の破局も、とくに東欧に関していえば、こうした構造から紐解くことができる。

 

 異動がしんどいのも、この「組み合わせという構造」が変わるからでしょう。組み合わせがよければしんどさはなくなり、組み合わせが悪ければしんどい状況が続く。

 

 続いたらイヤだなぁ。

 

 組み合わせという構造が変わったことが原因となって生じた「問題」の例を別角度からもうひとつ。著者曰く《なぜ近代において「ユダヤ人」が「問題」であると考えられるようになったのか》云々。

 

 それは、「ユダヤ人」の捉え方について意見が分かれるようになったからだ。伝統的なキリスト教世界では、ユダヤ人を道徳的な問題児として蔑みつつ、その経済的な機能は利用するという扱いで相場は決まっていた。イスラーム世界でも、啓典の民として位置づけられていた。
 ところが、西欧において、キリスト教権力がその規範とともに弱体化し、かわって啓蒙主義的な普遍主義が浸透すると、そのような個別的な捉え方は許されなくなっていく。

 

 組み合わせという構造に「平等」を取り入れたら、余計に差別を受けるようになったという話です。著者が言うには、「えた・ひにん」が《明治の国民平準化政策により法的には平等となる一方で独自の位置づけを失い、特殊性が抜けない「部落民」としてかえって激しい差別に遭うようになった》という話と似ているとのこと。この話、歴史の授業のときに6年生の子どもたちに伝えたかったなぁ。そして、ユダヤ人が《流転の果てに手にしたものとは》何なのかについても、ここでは内緒ですが、語りたかったなぁ。

 

しぜんをかんさつしよう(2025.4.9)


 本年度は3年生の担任になりました。昨年度教えていた6年生とのギャップに苦しみつつも、ダンゴムシを手に大はしゃぎしている子どもたちを見ていると、自分を「カスタマイズ」して好循環を目指そう(!)と思えます。学年の大人との組み合わせも、職員室の大人との組み合わせも、子どもたちとの組み合わせも、保護者との組み合わせも、地域の人たちとの組み合わせも、人に限らず、その他もろもろとの組み合わせも、

 

 よいものになりますように。

 

 祈り。