田舎教師ときどき都会教師

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勅使川原真衣 著『学歴社会は誰のため』より。行くんだジョニー。誰かと共に。

 しつこく問いましょう。私たちが気にして、必死で追っているのは、競争のための情報ですか? 共創のための情報ですか? と。
(勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』PHP新書、2025)

 

 こんにちは。昨日、劇団四季のミュージカル『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の通し稽古を観てきました。通し稽古というのは、いわゆるゲネプロ(最終リハーサル)のことです。

 

 未来だ!

 

秋劇場の入り口付近(2025.3.29)

 

 すげ~!

 

 劇場の中に入った途端に「未来だ!」と思いました。未来なだけに、まるで入学したばかりの小学1年生のようにわくわくしたし、どきどきもしました。音響にも照明にも映像にも大道具にもめちゃくちゃお金がかかっているだろうな、とも思いました。幕が上がってからの没入感や臨場感、それから疾走感も全て100点満点で、デロリアンが走る場面なんて鳥肌ものでした。映画のおもしろさに劇団四季らしさが加わり、「未来を決めるのは、いつだって自分だ」などのメッセージも強く伝わってきました。楽しみにしていたジョニー・B. グッドの場面も最高でした。

 

 彼は読み書きが十分に出来ないが
 ギターを弾けた
 まるで鐘を鳴らすように

 

 ジョニー・B. グッドの歌詞の一節です。例え読み書きができなくても、言い換えると学歴がなくても、ジョニーはギターが弾けて、

 

 輝いている。

 

 そうすると、(無理矢理)こう思います。学歴社会は誰のため(?)って。少なくともジョニーや劇団四季には関係なさそうです。

 

 って、思ったそこのあなた。

 

 ちょっと違うんです。ゲネプロを観に行けたのは劇団四季に親族がいるからなのですが、その親族(俳優ではありません)が劇団四季に入社したときにこう思ったことを覚えているんです。劇団四季に入るのにも学歴(早稲田とか同志社とか、そういった学校歴)がいるんだなって。音響だろうと照明だろうと映像だろうと大道具だろうと、学歴が必要なんだなって。

 

 まぁ、でも、それは人口増加社会の時代の話。

 

 人口減少社会の時代に入った今は、側聞するに、劇団四季も変わってきているとのこと。小学校の教員も、国立大学卒ではなく私立大学卒が増えました。教員不足の時代には、競争のための情報、すなわち学歴を気にしている場合ではないということでしょう。共創のための情報を気にする余裕もなさそうなのが心配ですが。いずれにせよ、ジョニーのように、共演すなわち共創できるのかどうかという情報が必要になってくるのは間違いありません。共創できれば、すなわち1+1が10にも100にもなれば、足しても8以下にしかならない3と5を雇う必要はないわけですから(3と5にはもっと相応しい場所があるはず)。時代が勅使川原真衣さんを求めている所以です。

 

 

 ノンフィクションのライターが星と星(事実と事実)をつないでストーリーをつくっていくのと同じように、私たち教員も子どもと子どもをつないで関係性を紡いでいきます。星座というのはそういう意味です。学歴社会に変わる、

 

 新しい星座をつくろう。

 

 

 勅使川原真衣さんの『学歴社会は誰のため』を読みました。なぜ世の中は学歴社会になったのか、学歴社会は誰のためなのか、学歴社会が一向になくならないのはなぜなのか、学歴社会に変わる代案はあるのか、そういった問いに答えてくれる一冊です。

 

 目次は以下。

 

 第1章 何のための学歴か?
 第2章 「学歴あるある」の現在地
 第3章 学歴論争の暗黙の前提
 第4章 学歴論争の突破口
 第5章 これからの「学歴論」―― 競争から共創へ

 

 著者のいわんとするところを勝手に推測してシンプルにまとめれば、先ほどから同じことを書いているような気もしますが、次のようになります。これからは人口減少社会でどの業界も人手不足になるのは目に見えているのだから、競争のための情報(=学歴)ではなく、共創のための情報を気にしていきましょう。その方が、公正ですよ。だって、教育社会学的には《学歴はまずもってその人の所得(稼ぎ、もらい)との相関がある》&《本人の学歴は親から子へと再生産される》ことがとっくに明らかにされているのですから。

 

 そういうことです。

 

国土交通省国土政策局 作成

 

 ここ数年、4月の保護者会のときにいつも提示しているグラフです。次の学校(異動先)ではこう言おうと思います。人口減少社会という見方・考え方を働かせれば、どう考えても人口増加社会と同じ社会原理ではやっていけませんよね、あの勅使川原真衣さんもそう言っています、って。

 

 そう、やっていけないんです。

 

「ねえ、いまからお父さんとお母さんの中学からの学歴を一人ずつ言っていこう。私からね、お父さんは開成、東大、マッキンゼー、社費留学でハーバード・ビジネス・スクール・・・・・・はい、勅使川原くんどうぞ」

 

 ある日の都心にある公立小学校の休み時間での出来事だそうです。『学歴社会は誰のため』の冒頭にこの発言をぶっこんでくるところ、さすがの勅使川原さんです。おもしろい。ちなみに漁師町にあった私の初任校では、朝から「先生、帆立とれたから職員室で食べてね」というような会話がなされていました。共創したいのは、どっちの子(?)という話です。

 

 言わずもがなでしょう。

 

 冒頭の「ある日の小学生の自慢話」を皮切りに、学歴社会が爆誕した歴史的経緯(第1章)とか、終わらない、そして何も生み出さない学歴論争(第2章)とか、成果主義の廃れ具合(第3章)とか、学歴社会と共依存の関係にあるのは日本のメンバーシップ型雇用である(第4章)とか、このブログの最初に引用した競争と共創の話(第5章)とか、その他もろもろひとたび読んでしまえば「言わずもがなでしょう」と思えることがたくさん書かれています。そしてこう思います。言わずもがななのに、なぜ私たちは依然として学歴社会から抜け出せないのか、と。なぜ子どもたちは中学受験なんてものに大切な子ども時代を捧げなければいけないのか、と。

 

 

 デロリアンに乗って未来に行けば、学歴社会とは異なる、もっと公正な、グッドな社会を目にすることができるのでしょうか。

 

 行け行け
 行けジョニー
 やってやれ
 行くんだジョニー

 

 桜が咲いて、また散ってをあと10回くらい繰り返したら、学校も企業も、競争よりも共創のための情報を気にかけているようになっているかもしれません。そのためにできること。異動先の学校でもしつこく問い続けていきます。

 

 行くんだジョニー。

 

 誰かと共に。