田舎教師ときどき都会教師

読書のこと、教育のこと

渡辺健一郎 著『自由が上演される』より。「自由」は教えられるのか。

 ランシエールは人間の意志がそれほど強くないことを知っています。好き勝手させておけば人が自由に学び始めるなどと楽観的なことは決して言いません。しかし教師は、生徒に対する特権的な知を有しているのではない、という態度を徹底しなければなりません。ランシエールのいう理想の教師には、次のような台詞を考えられるかもしれません ――「学ぼう、学ぶべき何かについて私は知らないけれども」
(渡辺健一郎『自由が上演される』講談社、2022)

 

 こんばんは。24日の月曜日に、4年、5年、6年と持ち上がりで担任した子どもたちが巣立って行きました。大学や企業に何度も連れて行ったり、校外学習を頻繁に計画したり、おもしろい大人との出会いをこれでもか(!)と用意したりして、上記の引用にある「学ぼう、学ぶべき何かについて私は知らないけれども」という態度を徹底し続けた3年間でした。

 

 学年2クラス。

 

 保護者にも、それから一緒に持ち上がった相方の先生にも恵まれ、ほんと、仕合わせな3年間だったなぁ。単学級を4年、5年、6年と持ち上がりで担任した最初の3年間と合わせ、トータル6年間。卒業式の門出の言葉(呼びかけ)風に書けばこうなります。

 

 担任)私も、〇〇〇小を卒業します。

 

 全員)卒業します!

 

 

 群馬県は島小学校の校長だった斎藤喜博(1911ー1981)が始め、全国にその実践が広まった門出の言葉(呼びかけ)は、堅苦しい卒業式に自由をもたらすためのアイデアだったと言われています。それはちょうどワークショップが座学の堅苦しさに対するアンチテーゼとして登場し、アクティブラーニングや自由進度学習などと名前を変えながら広まっているのと似ています。

 

 ここで問いが生まれます。

 

 参加者の自由、すなわち「自主性」と「主体性」を引き出すために始められた門出の言葉やワークショップは、「自由が上演される」ようには映っているけれど、本当の意味での自由をもたらすことには成功しているのか。言い換えると、

 

「自由」は教えられるのか。

 

 

 渡辺健一郎さんの『自由が上演される』を読みました。第65回群像新人評論賞の受賞作(大幅に加筆増補)。受賞時のタイトルは「演劇教育の時代」です。著者の渡辺さんは、小・中学生を対象とした演劇ワークショップに携わるなど、演劇や教育関係の活動を今なお続けているとのこと。つまり、評論家であると同時に教育者というわけです。同業だぁ!

 

 目次は以下。

 

 第1章 演劇教育をめぐる自由と暴力
 第2章 声と中動態 ― ランシエールの教育思想
 第3章 俳優と上演 ― ラクー=ラバルトとジャン=リュック・ナンシー
 第4章 上演の倫理

 

 あっ、ジャン=リュック・ナンシーだぁ!

 

 

 読んでいる本の中にジャン=リュック・ナンシー(1940 ー 2021)という名前が出てきたのはこの『自由が上演される』が初めてです。ナンシーの本は義兄が何冊か翻訳していて、大学院の修士課程でナンシーの研究をしていたという渡辺さんも、きっと、読んでいるはず。そう考えると親近感が湧きます。よく遊びよく学び、フランス語にも料理にもギターにも長けている義兄。当然、親戚にあたる読書ブロガーとしては、読んで、このブログで紹介したくなります。が、読めない。難しすぎて、読めない。1ページ目から、

 

 理解できない。

 

 さて、『教育と自由』の主題の一つに接近するために、ナンシーの『自由の経験』に言及します。自由についての自由な思考は可能か、という問いにこだわった自由なスタイルのこの本は、全てのページが難解です。理解されることを拒否し、ただ音を聞けとでも言っているかのようにすら思えます。

 

 ホッとしました。全てのページが難解だと思っていたのは私だけではなかったようです。ナンシーの本は難しい。

 

 現代の教育と同じくらい難しい。

 

「自由」は教えられるのか、という問いのことを考えると、現代の教育はより一層難しくなります。理解されることを拒否し、ただ長時間労働に耐えろとでも言っているかのようにすら思えてきます。そこで著者は、プラトン、ランシエール、平田オリザ、國分功一郎、ハイデガー、ナンシー、ラクー=ラバルトらのテキストを援用しながら、演劇教育を中心に、この難しさを紐解いていきます。

 

子どもたちが、教師からも環境=アーキテクチャからも強制されずに、当人たちの内側のパワーを存分に、自由に発揮できるようになること。現代の教育ではこれが問われています。

 

「自由」を教えるにあたって、教師が直接的に子どもたちをコントロールするわけではなく、教師が環境を整えることによって、あるいは場づくりによって間接的に子どもたちをコントロールするわけでもない、第三の道はあるのか。その問いへの応答が、門出の言葉の上演であり、ワークショップの上演であり、アクティブラーニングの上演であり、自由進度学習の上演です。全てが「自由」を教えるための演劇であり上演であると考えれば腑に落ちるでしょうか。それらの手法によって、

 

 自由が上演される。

 

 ただし問題があります。

 

「上演」は、何らかの意味とか、劇作家や演出家の教育的、美学的な思惑・意図などをもたらしたりする以前に、上演しているというまさにそのことを上演しているのです。当たり前のように聞こえるでしょうか。あるいは、何の意味もなしていないように思われるでしょうか。しかし上演が危険であるのは、舞台上の世界に完全に陶酔してしまうときや、舞台上に表わされた意味が正しいものなのだと思い込んでしまうときです。ナンシーは、その危険を回避するために、上演の上演性を強調します。

 

 自由は上演されているに過ぎない。

 

 そのことに自覚的にならないと、ナンシーのいう危険を回避することができません。例をひとつ。宿題廃止や定期テスト廃止、固定担任制廃止などの改革を成し遂げたことで知られる千代田区立の某中学校は、某有名校長が離任してしばらくすると、宿題も定期テストも固定担任制も復活して、もとのシステムに戻ってしまったと報道されています。某中学校の自由は《大人が支配的なパワーを働かせる》ことによって上演されたものであり、子どもたち自らが獲得した自由ではなかった。そのために自由の獲得に伴う責任が生じなかった。だから子どもたちが自由をはき違えるようになり、好き勝手するようになってしまった。そんなところでしょう。大人も子どもも上演の上演性に気付いていなかったということです。ことほどさように「『自由』は教えられるのか」の問いは、

 

 難しい。

 

 

 今日は劇団四季のミュージカル『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の通し稽古を観てきました。いわゆるゲネプロです。親族に関係者がいるので招待してもらいました。観客=関係者という属性のためか、観客のリアクションが素晴らしく、俳優と観客が共創しているように感じられて、

 

 大満足。

 

 観客という存在は危ない ―― 2400年もの間そう言われ続けてきた歴史は、軽んじることはできません。例えばいじめ問題に関しても、観客がいじめを助長すると言われています。

 

 自由の上演に際しては、演劇における観客も、授業における児童も、ときに危ない。渡辺さんの『自由が上演される』をよむと、そういった見方・考え方も働かせることができるようになります。劇団四季が提供してくれるような魅力的なパフォーマンスも、授業でやれば、

 

 ときに危ない。

 

魅力的なパフォーマンスは、生徒を惹き込み従わせるための手段です。「教育」が従属主体の生成であるということを忘れさせ、知への従属を無批判に受容させるための ―― こう言ってよければ信仰を集めるための ―― 方法にすぎません。
 そうではなく教師は、『教育と自由』という戯曲を上演する俳優なのです。これは極めて厄介な戯曲です。

 

 なぜ厄介な戯曲なのでしょうか。他にも引用して紹介したいところが山ほどあります。なぜに対する「なぜならば」を含め、

 

 ぜひ手にとって読んで確かめてみてください。

 

 おやすみなさい。