田舎教師ときどき都会教師

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鈴木結生 著『ゲーテはすべてを言った』より。愛はすべてを混淆せず、渾然となす。

「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」と今度は日本語に直してみる。そうすると、一寸はゲーテらしくなったか。そのとき、統一の念頭にあるのは勿論、ジャム・サラダのこと。愛はすべての事物を、ジャム的に混淆せず、サラダ的に渾然となす、とファウスト博士のように私訳してもよい。しかし、mixをどうとるべきかは、まだそれほど自明ではない。「confuse」(混同)、言うなればジャム的統一への対立概念として、「mix」(混ぜる)をサラダ的統一と解釈したが、本当にそれでいいのか?
(鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版、2025)

 

 こんばんは。学生時代にお世話になった研究室の教授が本年度で退官するというので、先週、アポも取らずに母校に足を運んできました。太陽の光と小雪が渾然と舞う中、広瀬川をこえ、偶然の再会を願って、いざ、

 

 東北大学へ。

 

広瀬川(2025.2.22)

遠刈田温泉の松川(2025.2.23)

酒処 番や(2025.2.24)

酒三昧(2025.2.24)

震災遺構・中浜小学校(2025.2.24)

中浜小学校の屋上より(2025.2.25)

 

 再会ならず。

 

 残念ながら、教授は不在でした。不在だったので、そしてゲーテが《人が旅をするのは、到着するためではありません。それは旅が楽しいからなのです》と言っていたそうなので、教授への「到着」はまた別の機会にしようと考え、遠刈田温泉やら震災遺構・中浜小学校やらを回ってきました。旅は、楽しい。

 

 えっ、アポを取れって?

 

 いやいや、ゲーテが、否、ナポレオンが《約束を守る最上の方法は、決して約束しないことだ》という名言を残しているじゃないですか。それに、誰かが言っているように《偶然があるから、世の中は面白い》んです。偶然の再会は、楽しい。

 

 えっ、誰が言ったのかって?

 

 わかりません。検索しても出てきません。ゲーテ研究の第一人者とされる学者の博把統一が「Love does not confuse everything, but mixes.」、すなわち「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」という言葉の出所がわからずに、言葉をめぐる冒険の旅に出た気持ちが少しだけわかりました。まぁ、少しというか100万分の1くらいですが。とはいえ、もしかしたら、この「偶然があるから、世の中は面白い」だって、ゲーテかもしれません。なぜなら、

 

 ゲーテはすべてを言ったから。

 

 

 鈴木結生さんの『ゲーテはすべてを言った』を読みました。ネタバレすることなく内容を簡単にまとめると、名言をめぐる冒険です。もう少しだけ解像度を上げると、主人公の博把統一は学者なので、

 

 名言をめぐるアカデミックな冒険です。

 

 

 愛はすべてを混淆せず、渾然となす。

 

 冒頭に引用したように、統一はこの出展不明の、しかしおそらくはゲーテの言葉であろう名言を、ジャム的統一ではなくサラダ的統一を是とした「ゲーテの夢」を表すものとして解釈します。

 それぞれを学校現場に当てはめると、ジャム的統一というのは要するに担任の裁量が許されない世界のことです。学校の方針に従え、と。逆に、サラダ的統一というのは担任の裁量が許される世界のことです。個性を出していいよ、と。統一はこの二つの異なる世界観をそれぞれ、ジャム的とサラダ的と名付けます。

 

曰く、ジャム的世界とは、すべてが一緒くたに溶け合った状態、サラダ的世界とは、事物が個別の具象性を保ったまま一つの有機体をなしている状態を指す。

 

 統一はもちろん、サラダ派です。

 

統一が最も頻繁にメディアに露出していた頃は、ジャムではなくサラダを! と主張する彼を、国民的アニメのキャラクターに比して、「サラダおじさん」と呼ぶ若者がいたくらい。尤もこれが親しみに見せかけた蔑みに過ぎないことは統一も重々承知していて、それでもなお、「サラダおじさん」を演じていたのであった。

 

 教育委員会が何を言おうと、それでもなお、管理職には「サラダおじさん」或いは「サラダおばさん」を演じてほしい。

 今日、私がB県で働いていたときの師匠が、鈴木大裕さんの『崩壊する日本の公教育』(集英社新書、2025)に書かれている《教育現場における自由裁量の剥奪が教員に疎外感を与えている》や《給料を上げ、その専門性と現場での自由裁量を尊重する》を引用した上で、

 

 答えを一つに揃えない。

 

 SNSにそう投稿していました。混淆しないということです。渾然となすということです。師匠も鈴木大裕さんも統一も、そしてゲーテも、

 

 サラダおじさん。

 

 私は「サラダお兄さん」。サラダおじさんこと統一は、ゲーテもサラダおじさんだったと考えているからこそ、その考えを決定的なものにすべく、この言葉が本当にゲーテのものであるのか、どういう文脈の中で使ったものなのか、知りたいという欲求に駆られます。

 

 それはこの言葉の原文を探し当て、文脈の中で判断するより他なかった。もし、これが思った通りの言葉であるなら、これこそ我がゲーテ学の神髄を言い当てる至言である。しかし、そうでなければ……。いずれにせよ、統一はこの名言を単に、「ゲーテがすべてを言った」で片づけることはできない、と思ったのだった。

 

 で、統一の「名言をめぐるアカデミックな冒険」が始まります。この冒険が、楽しいんです。通奏低音は《人が旅をするのは、到着するためではありません。それは旅が楽しいからなのです》というゲーテの言葉でしょう。ぜひ手にとって読んでみてください。

 次年度の異動先が決まりました。ジャム的世界かもしれませんが、多比のにおいがして、わくわくします。

 

 多比は、楽しい。

 

 おやすみなさい。