コミュニケーションはコミュニティを背景になされる。だからちょっとした発言に、発言者がどのようなコミュニティに属し、どのようなコミュニティに属していないのか、あるいは発言者と同じコミュニティに属して、いまコミュニケーションが試みられている受け手とは具体的に何者であり、誰がそこから追い出されているのか、ということがときに透けて見える。こうした目線で見てみると、本も新聞もSNSも日々の会話も、単なる言葉と言葉の応酬ではなく、一種の勢力図のように見えてくる。私の言葉からは何が滲み出ているだろうか? あなたの言葉からは?
(三木那由他『言葉の展望台』講談社、2022)
こんばんは。先日、組織開発コンサルタントの勅使川原真衣さんの対談を聞きに、東京は朝日新聞社の読者ホールまで行ってきました。交通費は痛いものの、なんと、参加費はただ。ただより高いものはないとはいえ、飛ぶ鳥を落とす勢いの勅使川原さんのトークを無料で聞くことができるなんて、そして交流会にも参加できるなんて、ファンとしては行かないわけにはいきません。主催はRe:Ronカフェ。そして対談相手は、
哲学者の三木那由他さんです。
Re:Ronカフェで組織開発コンサルタントの勅使川原真衣さんと哲学者の三木那由他さんの話を聞いてきた。成果主義の成果(ジョブ型の組織でいうところのジョブ)が明確になっていないのに「評価」しようとすると、メンバーシップ型の日本の組織では「評判」になってしまう(勅使川原さん)とか、存… pic.twitter.com/pHaAX9S2zE
— CountryTeacher (@HereticsStar) February 16, 2025
乙武洋匡さんのトークを聞きに行ったら対談相手の吉藤オリィさんもおもしろくて、吉藤さんの本も読んでみた。幡野広志さんのトークを聞きに行ったら対談相手の西智弘さんもおもしろくて、西さんの本も読んでみた。そういった過去の例に漏れず、勅使川原真衣さんのトークを聞きに行ったら対談相手の三木那由他さんもおもしろくて、
三木さんの本も読んでみた。
三木那由他さんの『言葉の展望台』を読みました。大阪大学で講師をしている三木さんは、哲学者であると同時にトランスジェンダーの当事者です。どっち(?)なのかといえば、トランス女性。出生時には男性と割り当てられたけれど、女性としての性同一性とジェンダー表現をもつ「トランス女性」です。今、これを書きながら、トランスジェンダーのことを調べつつ(検索しつつ)、かつてトランス男性とお茶をしたことを思い出しました。出生時には女性と割り当てられたけれど、男性としての性同一性とジェンダー表現をもつ「トランス男性」、とのお茶。
ややこしかったなぁ。
おそらくはその「ややこしさ」ゆえ、三木さんは学校制度に馴染めず、幼稚園も小中高もほとんど不登校だったとのこと。いじめにも遭ったとのこと。だからでしょう。三木さんはコミュニケーションに潜む暴力に敏感です。冒頭の引用にある《コミュニケーションはコミュニティを背景になされる》というのも、そういった暴力を生むメカニズムのひとつ。わかりやすい例でいえば、男性というコミュニティを背景とした、マンスプレイニングが挙げられます。
マンスプレイニングの典型例としてよく語られるのは、例えば女性が美術館で絵を眺めているときに、突然見知らぬ男性が現れ、女性が絵画に詳しくないという前提で解説を始めるといった状況である。
勤務校でも似たようなことというか、典型例として語りたくなるようなことがあったので、わかりみが深すぎます。私も気をつけよう。三木さんは続けて次のように書き、マンスプレイニングは《具体的な害だと言ってよいだろう》と結論づけます。
聞き手が無知だからマンスプレイニングがなされるのではない。マンスプレイニングがなされることで、聞き手が「無知な者」の位置に押し込められるのである。
うん、害だ。
有害だ。繰り返しますが、私も気をつけよう。そんなふうに、コミュニケーションの見方・考え方を変えてくれるのが、三木さんの『言葉の展望台』です。
三木那由他さんの『言葉の展望台』読了。文芸誌『群像』での連載をまとめたエッセイ集。連載の途中で《これまで大っぴらに語ったことはなかったが、私はトランスジェンダーの当事者だ》と明かしたという、珍しい試みを目撃できる一冊。読むと、コミュニケーションの見方・考え方が変わります。#読了 pic.twitter.com/B1wt5uwlpb
— CountryTeacher (@HereticsStar) February 21, 2025
目次は以下。
プロローグ コミュニケーション的暴力としての、意味の占有
そういうわけなので、呼ばなくて構いません
ちょっとした言葉に透けて見えるもの
張り紙の駆け引き、そしてマンスプレイニング
言葉の空白地帯
すだちかレモンか
哲学と私のあいだで
会話の引き出し
「私」のいない言葉
心にない言葉
大きな傘の下で会いましょう
謝罪の懐疑論
ブラックホールと扉
冒頭の引用は「ちょっとした言葉に透けて見えるもの」から、マンスプレイニングの話は「張り紙の駆け引き、そしてマンスプレイニング」から取りました。
最後にもう一つ。
つい最近、教室にドラァグクイーン(誇張した女らしさや女装などの性表現でパフォーマンスを行う人物。ゲイのシスジェンダー男性であることが多いが、さまざまな性的指向や性同一性のドラァグクイーンも存在する/Wikipedia)を招いてコラボ授業をしたんです。つい最近というか、勅使川原さんと三木さんの対談を聞きに行った数日前のことです。
で、何だかタイムリーだなぁなんて思いながら対談に耳を傾けていたところ、三木さん曰く「LGBTQの集まりにはお祭りっぽいのがたくさんあって、明るく生きている、ということをアピールしがち。でも私はそうじゃない」云々。教室に招いたドラァグクイーンの女性も、子どもたちの前ではめちゃくちゃ明るかったものの、授業後に一緒に飲んだときには「そうじゃない」タイプの人でした。明るく生きていようがそうでなかろうが、勅使川原さんがよく話しているように、大切なのは、存在そのものに価値があるという前提、
つまり存在の承認です。
だからどちらの姿も子どもたちに知ってほしかったな、と。その話を交流会のときに三木さんに伝えたところ、三木さん曰く「難しいですよね」とのこと。いい人です。即答せず、ためらうことをためらわない感じがして、とてもいい。
ためらうことをためらわない。
交流会後、勅使川原さんに新刊の『格差の"格"ってなんですか?』にサインをしていただきました。そこに添えていただいた言葉が「ためらうことをためらわない」です。ためらうことをためらわわないためにも、定時に退勤し、学校だけでなく複数のコミュニティに所属して、冒頭の引用にあるように《私の言葉からは何が滲み出ているだろうか? あなたの言葉からは?》と、ためらいつつ、
考え続けていきたい。
おやすみなさい。