大川小に赴任するまえ、彼は北東に10キロほど離れた相川という漁村で教鞭を執っていた。相川小学校での彼の仕事のひとつに、災害準備があった。多くの教師はこれを日常業務の一環として扱い、避難訓練の実施と保護者の電話番号リストの更新だけで済ませた。ところが、遠藤教諭はさらにもう一歩踏み込んだ。相川小の既存の緊急マニュアルには、津波警報が発令された際、児童と職員は三階建ての校舎の屋上に避難するべきだと書いてあった。遠藤教諭はそれを不充分だと判断し、学校の裏山の急な斜面を登って神社に避難するべきだとマニュアルを書き換えたのだった。
(リチャード・ロイド・パリ―『津波の霊たち』ハヤカワ文庫、2021)
こんばんは。昨日、山﨑エマ監督の『小学校 ~それは小さな社会~』を観に行きました。世田谷区立塚戸小学校の1年生と6年生の1年間を追ったドキュメンタリー映画です。日本人の母とイギリス人の父をもつ山﨑さんは、大阪の公立小学校を卒業後、中・高は神戸のインターナショナルスクールに行き、19歳で渡米。アメリカではニューヨーク大学の映画制作学部に通ったとのこと。で、こう思ったそうです。
私たちは、いつどうやって日本人になったのか?
素晴らしい問いです。おそらくは公立小学校、インターナショナルスクール、アメリカの大学と旅(=多比)していく中で、日本人としてのアイデンティティを自問する機会がたくさんあったのだと想像します。まさに、前回のブログでいうところの、
多比の効用。
The making of a Japanese.
映画の原題です。日本人のつくり方。この映画は教育大国フィンランドをはじめ、いくつもの国で絶賛されているそうで、それはきっと、日本人を特徴づけている「集団行動や協調性」のつくり方がよくわかるからでしょう。すなわち、問いに対する答えは、
私たちは、小学校の6年間で日本人になる。
映画『小学校 ~それは小さな社会~』(山崎エマ監督)を観た。宣伝コピーに《6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは “日本人” になっている》とある。国民性は小学校がつくっている。そのことがよくわかる。初等教育の大切さは強調してもしすぎることはない。 pic.twitter.com/KX4ODdS3Mq
— CountryTeacher (@HereticsStar) January 4, 2025
やはり、初等教育は大切です。映画の主人公のひとりである世田谷区立塚戸小学校のえんどう先生(6年生の担任)もそう思っていることでしょう。同じ苗字の石巻石立大川小学校の遠藤先生(教務主任)だって、そう思っていたに違いありません。大川小の保護者曰く《大輔は自然科学クラブのメンバーで、遠藤先生は子どもたちにシカの角を見せてくれたり、釣り針の作り方を教えてくれたり・・・・・・ワニやらピラニアやら、いろんな話を聞かせてくれたそうです。子どもたちにとっては、すばらしい先生だったんですよ》云々。素晴らしい先生だったのに。
嘘をつくような先生じゃなかったのに。
リチャード・ロイド・パリー著『津波の霊たち』を読みました。英国ラスボーンズ・フォリオ文学賞受賞。日本記者クラブ賞特別賞も受賞。もっと早く読んでおけばよかったと思った一冊です。出会わせてくれたのは贈与論で知られる教育哲学者の近内悠太さん。近内さんの講座に参加したときに「物語の力」という文脈で登場しました。
その場でポチッ。
リチャード・ロイド・パリーの『津波の霊たち』読了。贈与論で知られる近内悠太さんの講座で紹介されていた本。震災後の津波によって児童108名中74名・教員10名が亡くなった石巻市立大川小学校のことが書かれている。《問題は津波ではなかった。日本が問題だったのだ》。教員必読です。#読了 pic.twitter.com/8YvUCEtyUg
— CountryTeacher (@HereticsStar) January 5, 2025
近内さんは次の文章を引用しながら「物語の力」を語っていました。世界は科学で解明されるかもしれない。しかし、心は別。
心には物語が必要だ、と。
「都合のいいように解釈しているだけだと思います。人が幽霊を見るとき、人は物語を語っている。途中で終わってしまった物語を語っているんです。物語の続きや結論を知るために、人は幽霊のことを夢見る。それが慰めとなるのであれば、いいことだと思います」
東北を舞台にした柳田國男の『遠野物語』よろしく、『津波の霊たち』にも幽霊が出てきます。憑依とか、鎮魂とか、霊媒とか。どこか神秘的で、イギリス人の著者が興味をもつのも頷けます。ちなみに著者であるリチャード・ロイド・パリー(1969-)は、オックスフォード大学を卒業後にインディペンデント紙特派員として日本に赴任し、その後ずっと日本に住み続けているそうです。現在は英国「ザ・タイムズ」紙アジア編集長および東京支局長とのこと。
幽霊たち。
ポール・オースターに同タイトルの優れた小説がありますが、私が惹きつけられたのは幽霊たちの話ではありません。大川小学校で働いていた教員たち、特に、そのとき学校にいた教職員11人(校長は年休で不在)の中でただ一人生き残った遠藤先生の話です。冒頭の引用にもあるように、遠藤先生は前任校で緊急マニュアルを書き換えるという「功績」を残しています。震災の際、実際にその新しいマニュアルに従ったことによって、具体的には屋上ではなく裏山を登って神社に避難したことによって、相川小学校の子どもたちは全員助かっています。ちなみに屋上は波にのまれたとのこと。だから、どう考えても、どう読んでも、どう想像しても、
優秀な先生なんです。
しかし、六年生の生存児童のひとりである浮津天音ちゃんは、もっと決定的な場面について覚えていた。彼女によると、学校から再び出てきた遠藤教諭は「山だ! 山だ! 山に逃げろ!」と叫んだというのだ。
地震の後、大川小の児童はみな校庭に避難して整列しています。引用に《再び出てきた》とあるのは、校舎内で残留児童の確認等をしていたためです。《そのようなことに忙殺されていた遠藤教諭には、ほかの教師たちと意見交換する時間がほとんどなかった。とはいえ、そのときに彼が最善だと考えた避難経路についてははっきりとしている。もし彼がその場の責任者だったら、ちがう結末が待っていたかもしれない》。遠藤教諭が加わることのできなかったその《意見交換する時間》には、教師たちだけでなく、釜谷(大川小学校のあった集落の名前)の地区長等もいたようで、児童の証言によると《教頭は山に逃げた方が良いと言っていたが、釜谷の人は「ここまで来ないから大丈夫」と言って、けんかみたいにもめていた》り、《教頭と釜谷の区長が言い争いをしていた。「山に上がらせてくれ」(と教頭は言ったが)、「ここまで来ることがないから三角地帯へ行こう」と区長は言っていた》りしていたそうで、うん、初めて知りました。その場にいたのは教職員と子どもたちだけではなかったんですね。いずれにせよ、その後、誰もが知る悲劇が起こります。先生たちの指示に従って三角地帯へ向かった全78人の児童のうち、生き残ったのはわずか4人。教職員の中で生き残ったのは、
1人だけ。
その後すぐに、説明会での遠藤教諭の証言のほとんどが真実ではなかったことが発覚する。その晩を境に、彼はまた姿を消した。
震災後に開かれた、遺族に対する説明会でのエピソードより。なぜ、遠藤先生は嘘をついたのでしょうか。県や市、教育委員会を守るために誰かに強いられたのでしょうか。そうだとしたら、やりきれません。遺族の一人は次のように語っています。
「医者の診断書はどれも、以前のものをコピーしたかのような内容です。いつもあと三ヶ月は治療が必要だと書かれているんです。でも彼が飲んでいる薬は、不眠症に処方される程度の強さの薬でしかありません。
もしかしたら、遠藤先生は表舞台に出てきたくないのかもしれません。だとしても、教育委員会が責任逃れのために事実を歪めていることは確かです。きっと、彼のところに行って、『きみは表に出てこなくていい。何も言うな。この問題にはわれわれが対応する』とでも伝えたんでしょう」
この、組織の和を優先するという「日本っぽい」展開に、著者は《問題は津波ではなかった。日本が問題だったのだ》と書いています。
で、こう思います。
この著者の違和感は、最初に書いた山﨑エマさんの「問いと答え」と地続きなのではないか、と。つまり、小学校で身に付けた「集団行動や協調性」という特徴が、村社会的な「日本の問題」を生んでいるのではないか、という見方・考え方です。
どうでしょうか。
上記の映像も、この本を読んで知りました。とんでもないなぁ。これは、助からない。
遠藤先生は、その後どうしているのでしょうか。私もかつて三陸沿岸の漁村で教鞭を執っていたことがあります。パラレルワールドでは、もしかしたら自分がそうなっていたかもしれません。きっと、耐えられないだろうな。
遠藤先生に物語を。
おやすみなさい。