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佐久間亜紀 著『教員不足』より。絶望から出発しよう。

 しかし、教員不足の主原因が政策にあったのなら、教員不足は政策で改善していけることになる。
(佐久間亜紀『教員不足』岩波新書、2024)

 

 こんばんは。A県で勤務した小学校に専科の先生がひとりもいなかったことも、B県で勤務した小学校で同じ学年(5クラス)を組んだ4人が初任、臨任、臨任、臨任だったことも、佐久間亜紀さんの『教員不足』を読んだら、その理由がよくわかりました。専科の先生がいなければ、週の授業の持ちコマが30近くになって大変です。同じ学年を組んでいる同僚が臨任ばかりだったら、正規採用の私は責任が重くなって大変です。もしも日本の教員が、メンバーシップ型ではなく、ジョブ型志向だったとしたら、私のようにA県→B県→C県と移り変わって、憲法第26条でいうところの「ひとしく教育を受ける権利」が蔑ろにされていることに気付き、憤ってしまうに違いありません。生まれ育った自治体によって、こんなにも受けられる教育の質(児童の学習環境=教員の労働環境)が異なるなんて、おかしい。いったい、国は何をやっているんだ。教員になった教え子から次々と教育現場の惨状が届いたという佐久間さんも、おそらくは公憤によってこの本を書き上げたのではないかと想像します。

 

 

 憲法は統治権力に対する命令です。憲法を守らなければならないのは《政策》をつくっている人々、すなわち総理大臣を始めとする政治家や国家官僚といわれる行政官たちです。佐久間さんのこの本を、

 

 そういった人たちに届けたい。 

 

 

 佐久間亜紀さんの『教員不足』を読みました。少子化が急速に進んでいるにもかかわらず、なぜ教員不足なのかという「問い」に答えてくれる一冊です。副題になっている「誰が子どもを支えるのか」という「問い」にも答えてくれる一冊です。

 

 

 目次は以下。

 

 はじめに
 第1章 教員不足をどうみるか ―― 文科省調査からはみえないもの
 第2章 誰にとっての教員不足か ―― 教員数を決める仕組み
 第3章 教員不足の実態 ―― 独自調査のデータから
 第4章 なぜ教員不足になったのか(1) ―― 行財政改革の帰結
 第5章 なぜ教員不足になったのか(2)――教育改革の帰結
 第6章 教員不足をどうするか ―― 子どもたちの未来のために
 第7章 教員不足大国アメリカ ―― 日本の未来像を考える
 第8章 誰が子どもを支えるのか ―― 八つの論点
 おわりに

 

 各章を簡単かつパーシャルに紹介します。まずは第1章。教員になった佐久間さんの教え子から「#教師のバトン」的な声が届きます。曰く《今日がまだ木曜日であることに絶望しています》云々。教員不足により一人で複数人分の仕事を回さなくてはいけない状況に陥った故の《絶望》です。教え子さん続けて曰く《やるしかないけど、帯状疱疹ができちゃった。~中略~。帯状疱疹ってこんなに痛いって知らなかった。激痛だったけど、忙しくて病院に行く暇さえなくて。後遺症が残ったらどうしよう》云々。文科省調査からは見えない《どうしよう》でしょう。子どもたちだって「どうしよう」でしょう。希望ではなく絶望を抱えている先生に教わらなければいけないわけですから。つまり、現場の教員や子どもたちが見ている「教員不足」と、政治家や行政官が見ている「教員不足」は違うということです。そのことが第2章「誰にとっての教員不足か」に書かれています。

 

しかし、子どもからすれば、不足している先生の人件費の出所が、県であろうと市であろうと、いるべき先生がいないことには変わりがない。要するに、国からみえる不足の実態と、学校現場からみえる不足の実態は、異なっているのである。子どもにとっての教員不足の実態こそが把握され、解決される必要がある。

 

 前回のブログにも書きましたが、昔話でいうところの「僕のお父さんは桃太郎って奴に殺されました」っていう、鬼の子どもの立場で「桃太郎」を見直してみてくださいという話です。特別の教科道徳でいうところの「物事を多面的・多角的に考える」力が足りていないのは、国(政治家、官僚)なのではないでしょうか。第3章「教員不足の実態」では、佐久間さんが独自データを用いてそのことを明らかにしていきます。

 

「教室に先生がいるからといって、先生が不足していないわけではない」という事実は、どれほど強調してもしすぎることはない。教育委員会や学校が必死で教員を探し、現職教員たちが担当授業を増やし、体育の先生が国語の授業をするといった通常ではありえない裏技を使うなど、ありとあらゆる方策を講じて、それでもカバーしきれない分のごく一部が「教員不足」として外部にみえているということなのである。

 

 これが実態、否、実態の一部です。現場では、もっともっと《ありえない》ことがたくさん起きています。続く第4章と第5章では、なぜ教員不足になったのかという、冒頭の引用でいうところの《政策》の失敗が描かれています。政策の失敗は大きく分けて2つあります。

 

 行財政改革と教育改革。

 

 1990年代以降の行財政改革によって公務員の削減と義務教育費の削減が行われ、その際に子ども一人あたりの教員数を改善する中長期計画さえ中止にしてしまったこと。それが1つ目の要因。それから教育改革によってデヴィッド・グレーバーいうところのブルシット・ジョブが増えたこと。それが2つ目の要因です。

 

 このように教員不足は、教育公務員が行財政改革と教育改革の二重のターゲットにされ、人手も予算もさらに減らされたところへ、ひたすら仕事を増やされ、されには団塊世代の大量退職や少子化の加速などの社会的変化が重なって生じていたといえる。

 

 ブルシット・ジョブについては、以下。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 では、どうすればいいのか。第6章「教員不足をどうするか」と第8章「誰が子どもを支えるのか」には、いくつもの提案が書かれています。それらの提案が実現しないとアメリカみたいになっちゃうよというのが、第7章の「教員不足大国アメリカ」。アメリカでは迷彩服を着た州兵までもが教員として駆り出されているそうで、さすがはトランプ大統領が再選される国だなと思いました。現場の教員として、絶望ではなく希望がもてるくだりは、以下。

 

 第二に、義務標準法で「乗ずる数」と定められている係数を改善することが、教員の仕事量を適正化し、労働環境を改善する対策として効果がある。
「乗ずる数」とは、学級担任をもたない教員の定数を算出するための係数であり(第2章参照)、この係数を改善すれば、学校全体の運営に関わる教員や、専科の教員を増やすことができる。この方法が有効な手段であることは、山﨑洋介の研究などによって、近年特に注目を集めている(山﨑 2023b)。すでに、2023年7月には全国知事会が「学校教育を担う人材の確保に関する取組の充実について」の中で、この「乗ずる数」の見直しを提言した。

 

 専科の教員が増えれば、担任の担当授業時数が減って、僅かながらに希望がもてるようになります。より具体的には、週あたりの授業時数が上限20コマ(1日4コマ)になれば、教職を敬遠している学生にも希望を届けられるような気がします。

 

 絶望ではなく、希望。

 

 第1章の始まりが、著者の教え子からの《今日がまだ木曜日であることに絶望しています》という言葉になっているのは、絶望から出発しよう、というメッセージなのかもしれません。もうすぐ2025年。教育崩壊元年とか、すでに日本の教育は崩壊しているとか、いろいろ言われていますが、

 

 絶望から出発しよう。

 

 おやすみなさい。