田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

横道誠 著『〈逆上がり〉ができない人々』より。体育が生き地獄だった全ての人たちへ。そして教員へ。

中学生のとき、運動会で1500メートル走の選手に選ばれてしまい、ひとりだけ何周も遅れて完走したときのことを忘れられない。会場からは拍手があがり、親友が走ってきてねぎらってくれたが、私にとっては生き地獄のように感じられた。
(横道誠『〈逆上がり〉ができない人々』明石書店、2024)

 

 こんばんは。拍手をしている人たちは、おそらくあたたかい場面だなぁと感じていたことでしょう。小学校の運動会でもよくあります。私もその都度、何となく拍手をしちゃっています。対象となっている児童が発達性協調運動症(DCD)者かもしれないということも、生き地獄のように感じているかもしれないということも、感動ポルノと同じ構図になっているかもしれないということも、全く想像することなしに、です。

 

 僕のお父さんは、桃太郎って奴に殺されました。

 

 立場が変われば見える世界もガラリと変わる。もしも鬼の子どもが主人公だったら。もしもDCD者が多数派だったら。そういった、道徳の授業でいうところの多面的・多角的な見方・考え方を働かせるためには、いったいどうすればいいのでしょうか。おそらく答えはこうでしょう。

 

 まずは知ることから。

 

 美学者である伊藤亜紗さんの名著のタイトルを捩れば、発達性協調運動症(DCD)者は世界をどう見ているのか。換言すると、〈逆上がり〉ができない人々は世界をどう見ているのか。

 

 

 横道誠さんの『〈逆上がり〉ができない人々』を読みました。サブタイトルは「発達性協調運動症(DCD)のディストピア」で、丸ごと一冊をDCDのことで埋め尽くした「当事者本」&「インタビュー集」です。

 

 えっ、DCD?

 

 DCD者というのは、簡単にいえば、知能面ではなく運動面(微細運動や粗大運動)に問題を抱えた人たちのことを指します。ちなみに著者は、DCDの診断は下りていないものの、ASDとADHDについては診断が下りていて、おそらく、否、間違いなくDCDにも該当しているであろう、とのこと。以下、目次です。

 

 プロローグ ―― そしてディストピアが始まる

 第1章 発達性協調運動症に関する基本事項
 第2章 私のオートエスノグラフィー
 第3章 当事者の親へのインタビュー
 第4章 当事者へのインタビュー
 第5章 問題をどう解決するか

 エピローグ ―― もし発達性協調運動症の人が多数派だったら?

 

 横道さんの前著『「心のない人」は、どうやって人の心を理解しているか』やその他の著書と同様に、ひとつの章を読み終えるたびに感想を添えて「X」にポストしました。そしてポストするたびにこれまでと同様に横道さんにリポストしていただきました。読者へのこだわりのある心遣いが、

 

 嬉しい。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 

 

 

 

 読むとわかりますが、当事者の視点に立つことによって、DCDに限らず、ASDのことも、ADHDのことも、それからそれらを全てひっくるめたニューロマイノリティのお子さんをもつ保護者のことも、解像度高く、具体的に理解できるような構成・内容になっています。一読すれば、多面的・多角的な見方・考え方を働かせることができるようになること間違いなし。

 

 例えば次のくだり。

 

その担任教師から「本人のためにも、空気を読めるようになって、行動できるようにならなくちゃいけません」と言われたそうだが、その教師にはその発言が、目の見えない人に向かって「周囲をよく見ながら歩きなさい」とか、耳の聞こえない人に向かって「人の話はちゃんと聞きなさい」と求めるのと同じような、グロテスクな暴力性に満ちたものだということを理解できていないのだろう。

 

 その担任教師も『〈逆上がり〉ができない人々』を読めば、おそらく〈逆上がり〉ができない人々にもうまく配慮できるようになるでしょう。DCD者の中には《二足歩行すら嫌なんですよ》と感じている人もいるなんてこと、絶対に知らないはずですから。私も知りませんでした。もしかしたら教え子の中にもそういった子がいたかもしれません。そんな子に、運動会の短距離走への参加を強いて、がんばれー(!)なんて拍手をしていたなんて。うん、グロテスクです。運動会の各種目への参加は、

 

 選択制にすればいい。

 

 目の見えない人や耳の聞こえない人と同様に、DCD者に対しても合理的な配慮が必要というわけです。

 

 例えば次のように。

 

 でも偶然に先生がとても良くて。たとえばプールに入ると、この子は水で遊んでいたくて、出たくないって言うんです。そしたらその先生は、延々とそばにいてくれて、この子が納得して、落ちついて話が聞けるようになるまで、付きあってくれました。
 そういう出会いがあって、この子はその1年で大きく変わりました。たとえば列に並べるようになりました。最後にその先生から「忍耐のいるお子さんでした。ここまで自閉症がきついお子さんは、初めて担当しました。でも、そのぶん勉強になって楽しかったです」と言われたことを覚えています。

 

 DCD児を育てている保護者のインタビューより。その子が公立の幼稚園に通っていたときのエピソードです。引用にある《そのぶん勉強になって》というところ、私にも経験があるので大いに共感できます。とはいえ、

 

 小学校では、難しい。

 

 人的なゆとりがなく、ひとりの子のそばに延々といるわけにはいかないからです。だからこそこう思います。DCD児はもちろんのこと、ASD児やADHD児やその他もろもろの特性のある児童一人ひとりに合理的な配慮をするためにも、そして横道さんが第5章の「問題をどう解決するか」に書いていること(詳しくはぜひ手に取って読んでください!)を実現するためにも、

 

 学校現場に「人」をください。

 

 おやすみなさい。