田舎教師ときどき都会教師

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ヨセフ・アガシ 著『父が子に語る科学の話』より。教員がクラスの子に語る科学の話、として読みましょう。

 ファラデーは、そのクリスマス講義をとても念入りに準備した。それらは素晴らしい講義で、そのいくつかは後に出版された。かれは子どもたちに自分のアイデアをできるだけ簡単なやり方で語った。かれは自分のアイデアのすべてを説明することはできなかったが、それは子どもたちが科学について十分な知識をもっていなかったからだ。
 しかしかれはできるだけ簡単に話そうとした。こうして、かれは科学のために偉大な貢献をした。なぜならファラデーの時代以降、科学の進歩を望むならば、子どもたちにどのようにしたら科学的になれるのかとか、開かれた精神をもつことができるようになれるのかを教えなければならない、と多くの人々が気づくようになったからだ。
(ヨセフ・アガシ『父が子に語る科学の話』講談社、2024)

 

 こんばんは。先日、国内某所で食事をしていたところ、背後の席に大物が現れてびっくりしました。ホリエモンこと、実業家の堀江貴文さんです。思わず聞き耳を立ててしまいました。実在するんですね。天体望遠鏡を発明したガリレオの言葉を思い出します。君は聞いたことを信じるだけで、

 

 自分の目で確かめないのか?

 

自分の舌で確かめる(2024.12.5)

 

 成毛眞さんとの共著に『儲けたいなら科学なんじゃないの?』がある堀江さんは、宇宙スタートアップ「インターステラテクノロジズ」のファウンダーとしても知られています。ファラデーやガリレオと同様に、

 

 科学のために偉大な貢献をしよう。

 

 そう思っているかどうかはわかりませんが、科学に興味があることは間違いありません。科学哲学者、科学史家として知られる父アガシによって《どのようにしたら科学的になれるのかとか、開かれた精神をもつことができるようになれるのか》を教えてもらった息子アーロンも、きっとホリエモンのように「開かれまくった」大人になっていることでしょう。

 

 

 ヨセフ・アガシ 著『父が子に語る科学の話』(立花希一 訳)を読みました。父アガシと息子アーロンの対話(1966年の夏)から生まれた「科学入門」の名著です。序文を寄せている読書猿さん曰く《科学という広大な海への、魅力的な招待状だ》とのこと。息子アーロンは8歳です。日本でいえば、小学2年生か3年生に相当することから、科学のおもしろさや本質を教えなければいけない立場にある小学校の教員にとっても、教育という広大な海への、魅力的な招待状として読めるのではないでしょうか。

 

 目次は以下。

 

 序 文 科学はなぜ「対話」を必要とするのか?
 第一章 科学って何だろう?
 第二章 世界は何からできている?
 第三章 大発見はどうやって生まれる?

 

 序文は読書猿さんが書いています。第一章から第三章には、コペルニクスだったりアリストテレスだったりガリレオだったりデカルトだったりニュートンだったりアインシュタインだったりファラデーだったり、その他もろもろ、歴史に名を残す偉大な科学者たちがたくさん登場します。そして彼らの《偉大な貢献》が、具体と抽象を行ったり来たりしながら、8歳の子どもにもわかるように対話形式で綴られていきます。

 

――じゃあ、アインシュタインは、だれの理論がもっとも優れていると考えたの?
 かれはどの理論についてもそれが最良だとは思っていなかった。かれは、自分の理論がいまある中でもっともよいとは思っていたが、それで十分だとは思っていなかった。そこでかれは、全生涯をかけて、さらによい理論を開拓しようと努めた。今日の科学者は、どんなによい理論でも、さらにそれよりも優れた理論があるかもしれないと信じている。

 

 こんなふうに、息子のアーロンが問い、父のアガシが社会科でいうところの英雄史観(⇔庶民史観)に則って答えていくわけですが、巧いなぁと思ったのがファラデーが出てくるところの下りです。第三章の後半に登場するファラデーだけ、他の科学者と扱いが違うんですよね。ファラデーというのはもちろん、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られる、科学者のシンデレラことマイケル・ファラデーを指します。

 

――「科学者のシンデレラ」って、どういう意味なの?
 この物語を手短に話してあげよう。これまで私は、科学者の個人的な生活についてはあまり話してこなかった。どのようにかれらが生活し、どこからお金を得ていたのかも言わなかった。科学の「社会」史の一部であるこのようなことについても少し話をしておいたほうがいいだろう。

 

 ファラデーだけが伝記的な扱いを受けているんです。具体的には、科学に対する貢献だけでなく、どんな生き方をした人物なのか、ということが書かれているんです。まるで私の学年(小学6年生)で取り組んでいる「大人図鑑」(総合的な学習の時間「結局、人。やっぱり、生き方。~大人図鑑編~」)のよう。

 

 どんな生き方だったのか?

 

 シンデレラのような生き方というのが答えです。つまり、しんどい境遇から抜けだし、ちょっとしたきっかけによって成功をつかんだ、という生き方です。家庭環境に恵まれなかったとしても、数学が得意ではなくても(ファラデーは生涯にわたって数学が得意ではなかったそうです)、この本を「きっかけ」にすれば、科学的になれるし、開かれた精神をもつこともできる。ファラデーだけが特別扱いになっているのは、そのようなメッセージを送るためかなと思いました。宛先はもちろん、

 

 子どもたちです。

 

 

 何を種々考えたのかといえば、訳者解説に《息子さんはお元気ですか?》と尋ねたところ、著者の妻のユディットから《アーロンは、知的には優れているけれども、社会関係を結ぶのが苦手なので、施設に暮らしている》と返ってきたと書かれていたからです。驚きです。ちなみにユディットはマルティン・ブーバーの孫娘だそうで、それも驚きというか、アーロン ≒ 発達障害(ニューロマイノリティ)に納得です。おそらくはマルティン・ブーバーも発達障害。ニュートンだってライプニッツだって発達障害。もちろん発達障害だからOKとかNGとか、そういう話ではありません。ニューロマイノリティが社会関係を結ぶためには、ブーバーいうところの「汝」が必要なのだろうなと、そういったことを種々考えたというわけです。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 昨日は土曜公開授業でした。振替休日はありません。次の土曜日も学校行事で出勤です。怒濤の6連勤 ✕ 2。2学期の通知表の作成もあるため、夜も働きっぱなしです。科学どころではありません。著者曰く《ファラデーは長時間はたらいたので、科学を研究する暇を見つけることがほとんどできなかった。世界は科学者としてのかれをもう少しで失うところだった》云々。教員は長時間労働のために本が読めません。国や現場が長時間労働の問題に取り組まない限り、日本は科学者の卵としての彼ら彼女らをこれからも失い続けることになるでしょう。教員が児童生徒に語る科学の話がおもしろくなければ、子どもたちは、科学的になることも開かれた精神をもつこともできませんから。

 

 あっという間に日曜日の夜です。

 

 誰か、振替休日をください。