田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

ハン・ガン 著『すべての、白いものたちの』より。ノーベル文学賞作家による65の物語。

 単語を一つ書きとめるたび、不思議に胸がさわいだ。この本を必ず完成させたい。これを書く時間の中で、何かを変えることができそうだと思った。傷口に塗る白い軟膏と、そこにかぶせる白いガーゼのようなものが私には必要だったのだと。
(ハン・ガン『すべての、白いものたちの』河出文庫、2023)

 

 こんばんは。尹錫悦大統領による突然の戒厳令の宣布に、ハン・ガンさんも驚いたのではないでしょうか。今年、アジア人女性として初めてノーベル文学賞を受賞した、韓国人のハン・ガンさんの地元は「光州事件」で知られる光州です。彼女の代表作である『少年が来る』は、その光州事件を題材としたもの。またあのときのように多くの犠牲者が出るのではないか。抗争に巻き込まれる学生や家族が出るのではないか。せっかく私が『少年が来る』を書いたのに。ノーベル文学賞までとったのに。あのとき犠牲になった死者たちに、

 

 祖国は、なぜ報いようとしないのか。

 

 スウェーデン・アカデミーは、ハン・ガンさんのノーベル文学賞受賞理由を「歴史的なトラウマと対峙し、人間の生命の儚さを露呈した、迫力のある詩的な散文に対して」と発表しています。光州事件もその《歴史的なトラウマ》のひとつでしょう。念のため Wikipedia を引いておくと、80年に起きた光州事件というのは《大韓民国の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現在の光州広域市)を中心に発声した市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起》のことをいいます。蜂起は失敗。軍による一斉射撃などによって、夥しい数の市民が犠牲になったそうです。70年生まれのハン・ガンさんは当時10歳。日本でいうと小学4年生の女の子です。光州事件が起きる少し前に引っ越していたそうですが、ニュースで知って、怖かっただろうな。

 

 

 ハン・ガンさんの『すべての、白いものたちの』を読みました。訳者は斎藤眞理子さん、解説を書いているのは作家の平野啓一郎さんです。ハン・ガンさんの本を読むのは初めてで、帯に書かれた「ノーベル文学賞受賞」という惹句にアフォードされて手に取りました。ミーハー(死語?)なきっかけだったとはいえ、昨日から今日にかけての韓国での戒厳令騒ぎを受け、我ながらタイムリーだったな、と。俄然、興味が湧いてきたな、と。

 

 感想は?

 

 知りたい。読み終えたときの正直な感想です。詩的な散文(ルールのない文章)ゆえ、わからないことが多かったこと。言葉が繊細で儚いゆえ、どのような心境で書いたのか、興味をもったこと。ハン・ガンさんについての知識が真っ白なため、他の作品も読みたいと思ったこと。全てひっくるめて、

 

 知りたい。

 

 

 例えば、こんなふうに書かれています。

 

 寒さが兆しはじめたある朝、唇から漏れ出る息が初めて白く凝ったら、それは私たちが生きているという証。私たちの体が温かいという証。冷気が肺腑の闇の中に吸い込まれ、体温でぬくめられ、白い息となって吐き出される。私たちの生命が確かな形をとって、ほの白く虚空に広がっていくという奇跡。

 

 第2章の「彼女」を構成する一節です。題して「息」。続いて「白い鳥たち」という一節が始まります。章立ては全部で3つ。第1章は「私」、第2章が「彼女」、そして第3章は「すべての、白いものたちの」。どの章も《傷口に塗る白い軟膏と、そこにかぶせる白いガーゼ》のような一節ばかりで、小説ではあるものの、趣としては《連作散文詩》のよう。散文として紡がれた短い物語は全部で65。冒頭の引用は第1章の「私」から取りました。以下は「作家の言葉」(日本でいうところのあとがき)より。

 

 私の母国語で白い色を表わす言葉に、「ハヤン」と「ヒン」がある。綿あめのようにひたすら清潔な白「ハヤン」とは違い、「ヒン」は、生と死の寂しさをこもごもたたえた色である。私が書きたかったのは「ヒン」についての本だった。

 

 つまり、『すべての、白いものたちの』は、生と死の寂しさをこもごもたたえた色についての本、ともいえるというわけです。

 

 生死無常。

 

 儚いはずです。ではなぜ、ハン・ガンさんは「ヒン」についての本を書きたかったのか。巻末の「作家の言葉」に説明があります。光州事件を題材とした『少年が来る』を書き終えた後に、ハン・ガンさんは休息を求めたんですよね。公の《歴史的なトラウマ》に対峙して、くたくたになったようです。そしてそのくたくたから回復するためには、いったん全てを白紙にして、別の物語をつくる必要があった。だから『すべての、白いものたちの』を書いた。ハン・ガンさんは『すべての、白いものたちの』を書くにあたって、光州事件とは異なる、別の私的な《トラウマ》と対峙することになります。ネタバレになるので書きませんが、俄然、興味が湧いてきたなって、そう思ったそこのあなた。ぜひ手にとって読んでみてください。

 

 私は『少年が来る』を読まなければいけない。

 

 おやすみなさい。