共通項を抽象化すると、大人は「言葉、法、損得」へと閉ざされていて、子どもは「言外、法外、損得外」に開かれています。個体発生は系統発生を模倣するというヘッケルの法則は出生後にも拡張できます。これら子どもの特性は、数十万年オーダーで続いた遊動段階や初期定住段階の大人の特性です。だから今の大人は不自然で、子どもは自然です。
ならば、シュタイナーや吉本がそうだったように、子どもが大人になることを素朴に「成長=一人前になること」と捉えず、「疎外=不自然になること」と捉える視座が必要です。その点、森に放っても指示がないと動けない子どもが増える昨今は、まずい展開です。子どもから内発性=内から湧く力 intrinsic power が失われていることを意味しているからです。
(宮台真司、おおたとしまさ『子どもを森へ帰せ』集英社、2024)
こんばんは。上記の引用に出てくるエルンスト・ヘッケルの法則を拡張すると《子どもは定住以前の大人を繰り返す》になります。定住以前の大人は「言外、法外、損得外」へ開かれていた。定住以後の大人は「言葉、法、損得」へと閉ざされるようになった。「言葉、法、損得」への閉ざされというのは、宮台真司さんいうところの「言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシーン」の略で、要するに、
つまらない大人のこと。
定住以前の大人は自然。定住以降の大人は不自然。だから「言外、法外、損得外」へ開かれている子どものうちに、生涯消えることのない内なる光(内から湧く力の源泉)を彼ら彼女らに埋め込もうというのが、そしてそうすることによって社会を変えていこうというのが、宮台真司さんとおおたとしまささんのねらいです。そのための方法のひとつが、
森のようちえん。
宮台真司さん曰く《「空気を読みつつ、空気に縛られない営み」を多重帰属が助けます。複数の集団に帰属することです。ドイツは多重帰属を大切にし、学校が子どもを抱え込みません》云々。6時間授業と宿題で子どもを抱え込み、長時間労働と副業禁止で教員を抱え込む日本の小学校がまともなはずもなく…
— CountryTeacher (@HereticsStar) November 9, 2024
今週は久し振りに保護者対応に時間をとられました。学芸会の準備にも時間をとられました。ちなみに3年前の埼玉教員超勤訴訟によると、「保護者対応」も「学芸会の準備」(学校行事の準備)も、教員の労働時間としては認められない(!)とのこと。司法の見解では、どちらも「私がプライベートで勝手にやっていること」らしいです。いったい、どんな見方・考え方を働かせたらそうなるのでしょうか。
プライベートで一緒に飲みたい!
そう思えるような、「言外、法外、損得外」へ開かれている保護者だったら、プライベートで勝手に対応するのもウェルカムですが、保護者対応という場面に限っていえば、そんなケースはほとんどなく、自棄酒でも飲まないとやってられません。
宮台 土地に縁のない新住民が土地の共通感覚を知らないのに出しゃばって、「骨が折れたら誰が責任とるんだぁ~!」とほざいたけど、不注意で骨が折れる奴が悪いから、以降は骨が折れないように気を付けるのが当たり前。それが60年代に小学生だった僕の感覚だし、80年代旧住民の感覚だけど、それのどこがダメなのか。
私の感覚でも、それのどこがダメなのか、と口にしたくなる事例が年々増えていっている気がします。心が折れたら誰が責任をとるんだぁ~(!)って、担任のちょっとした注意で心が折れる子が悪いから、以降は注意されないように気をつけるか耐性をつけるのが当たり前。それのどこがダメなのか。
私の時間を返せ。
宮台真司さんとおおたとしまささんの『子どもを森へ帰せ』を読みました。副題は「『森のようちえん』だけが、AIに置き換えられない人間を育てる」です。目次は以下。
はじめに 迷子になった現代人のための道しるべ おおたとしまさ
第1章 なぜいま「森のようちえん」なのか?
第2章 「森のようちえん」実践者との対話 vol.1
第3章 「森のようちえん」実践者との対話 vol.2
おわりに 「森のようちえん」は、教育をはるかに越えた射程を持つ 宮台真司
第2章には認定NPO法人「森のECHICA(エチカ)」代表理事の葭田昭子さんと環境NGO虔十の会代表の坂田昌子さんが、第3章にはNPO法人もあなキッズ自然楽校理事長の関山隆一さんが、宮台さんとおおたさんの対話に加わっています。対話の中心にある問いは、
なぜ、森のようちえんが必要なのか。
おおた 人間が言葉に抑圧される前の状態を、幼児期に追体験するということですね。そしてそれを見て、大人も忘れていたものを取り戻す。それが、新聞広告の推薦文に書いてくださった「読者は本書を通じてその『何か』を見出すだろう」の何かですね。つまり答えは、「同じ世界」で「一つになる能力」です。「共同身体性」と言ってもいいし、最後に出てきた「正しい文化」と言い換えてもいい。
なぜならば、森のようちえんでは、定住以前の大人たちがもっていた「同じ世界」で「一つになる能力」の種を蒔いてくれるから。森のようちえんが「言外、法外、損得外」に開かれているのに対し、他のようちえんは「言葉、法、損得」に閉ざされているから。閉ざされているのは他のようちえんだけではありません。
小学校も然りです。
ケンカしたり友達と団子になったりして自由に遊ぶ経験、ロゴス(言葉や論理)ではなくピュシス(ありのままの自然)に依拠しながら中動態的に遊ぶ経験、宮台さんの言葉でいうところの《黒光りした戦闘状態》で遊ぶ経験。森のようちえんではそういった経験をたくさん積むことができるようです。体験を通してピュシスの歌を聴けるようになった卒園生が《森に放っても指示がないと動けない子ども》になる可能性は低いでしょう。ちなみに「同じ世界」で「一つになる能力」の典型は性愛です。子どもを森へ帰せば、少子化にも歯止めがかかるかもしれません。
宮台 はい。性愛の相手が現れたら、異性愛であれ同性愛であれ「同じ世界」で「一つになる」といい。約2500年前のプラトンに始まりバタイユやレヴィナスや吉本隆明に至るまで同曲を変奏します。文明化=大規模定住化・分業編成複雑化・原生自然間接化・言語的予測符号化が分泌した、自己 self や自己を維持したがる自我 ego は疎外=非本来性だと。
プラトンいわく、神性から疎外されて欠けた自己が神性を回復して全体に開かれる営みが性愛。バタイユやレヴィナスいわく、言語で疎外されて欠けた自己が身体性の回復で言外の無限に開かれる営みが性愛。吉本いわく、共同幻想の対幻想からの分離で自己幻想へと疎外された者が対幻想という無限に開かれて疎外から逃れる営みが性愛、まさに同曲です。
まさに宮台さんです。ピュシスの人なのに圧倒的にロゴスに長けている。長けまくっている。宮台さんのことを知らない人は、ぜひ『聖と俗』を読んでみてください。
第3章の最後の節のタイトルは「ピュシスの歌を聴く力」です。村上春樹さんの処女作である『風の歌を聴け』みたいだなって思ったら、ちゃんと言及がありました。ハルキムラカミもこう思っていたのかもしれません。言外・法外・損得外のシンクロに開かれるためにも、
ピュシスの歌を聴け。
おやすみなさい。