日本語の音象徴における清濁の重要性は、それがオノマトペ以外でも見られることからもわかる。「子どもが遊ぶさま」の「さま」に対して、「ひどいざま」の「ざま」は軽蔑的な意味合いを持つ。「疲れ果てる」の「はてる」に対する「ばてる」んもぞんざいなニュアンスが伴う。
以前、あるテレビ番組で、癌を経験した女優の大空眞弓さんが、「「がん」じゃなくて「かん」と呼べばショックが少ないのに」というような話をしていた。これもまさに清濁の音象徴から来る感覚である。
(今井むつみ、秋田喜美『言語の本質』中公新書、2023)
こんにちは。例えば、小学校の学級担任がこういった話を子どもたちにし続けることができれば、子どもたちの国語の成績は上がると思うんですよね。授業そのものよりも言語環境(日々、どんな言葉、語彙、引用、言い回し、エピソードを浴びているか)が大事だという仮説です。
まぁ、かんですが。
教師の直感はけっこう正しい。A県でお世話になった師匠その1はそう言っていました。ちなみに昨日の帰りに本屋に寄ったところ、B県でお世話になった師匠その2が登場する新刊(汐見稔幸 編著『学校とは何か』)が本棚に面陳されていて、聞いてはいたものの、ばばば、となりました。
ばばば。
気仙沼で使われている方言です。驚くという意味です。これが「ははは」だったら確かに軽い感じがして、びっくりの「び」につながるようなニュアンスは薄れるだろうなぁとか、そういった意味で今井むつみさんと秋田喜美さんいうところの《音象徴における清濁の重要性》ってわかるなぁとか、この「ばばば」は『言語の本質』で取り上げられているオノマトペなのかなぁ、そうじゃないのかなぁとか、これが違う文脈、例えば「ばばばと機関銃を撃つ」だったらその場合の「ばばば」は間違いなくオノマトペだなぁとか、たった一冊の本を読んだだけでもいろいろと思うところがあって、これぞまさに「ブーストラッピング・サイクル」だなって、その説明はまた後でしますが、話を元に戻すと、
授業そのものよりも言語環境が大事。
言い換えると、担任がどんな言葉を使って子どもたちに語りかけたり、どんな言葉を使って子どもたちの振る舞いを価値づけたり、どんな言葉を使って子どもたちに応えたりしているのかが大事という仮説です。師匠その1も師匠その2も当たり前のように本を読み、言葉に力のある人でした。教育の本質が、
わかっていたのだろうなぁ。
今井むつみさんと秋田喜美さんの『言語の本質』を読みました。小学5年生の国語の教科書に今井さんの「言葉の意味が分かること」が掲載されていることから、そしてこの本が2024年の新書大賞に選ばれたことから、すでに読みました(!)という教員が多いのではないでしょうか。もしも少ないとしたら、ほとんどいないとしたら、それはきっと長時間労働のせいであり、ほんと、
仕事減らせよ。
そう思います。2学期が始まる前に職員会議があって、9月から12月までの細かな予定だったり行事や研究・研修の予定だったりが共有されるわけですが、聞いていると心底うんざりするんです。普段の授業なんてどうでもいいのだろうな、と。授業の準備を勤務時間内にやろうなんていう概念の予兆すら感じられないな、と。オノマトペで表現すると「ぴえんこえてぱおん」だな、と。あっ、愚痴になってしまいました。以下、目次です。
第1章 オノマトペとは何か
第2章 アイコン性
第3章 オノマトペは言語か
第4章 子どもの言語習得1
第5章 言語の進化
第6章 子どもの言語習得2
第7章 ヒトと動物を分かつもの
終 章 言語の本質
オノマトペとは何かという問いから著者たちが始めた探究は、マトリョーシカのように、どんどん新たな問いを生んでいった。探究とは、より本質的な問いとの出会いである。こうして、オノマトペの性質や役割を明らかにしたいという筆者たちの探究は、「言語習得」「言語進化」を考えることに変わり、いつしか「言語の本質」という、エベレストの山頂を目指すような旅になっていった。この山は最短距離で直線的に登ることができない。いたる所で遭遇する難所をうんうん言いながら越えたり、迂回したりして、ルートを開拓しながら進んでいかなければならないのだ。
より本質的な問いというのは、例えば身体性をもたないAI(人工知能)を引き合いにしながら「ヒトはことばを覚えるのに、身体経験が必要だろうか?」とか、言葉と身体の関係性を探るに当たって「オノマトペがヒントになるのではないだろうか?」とか、谷川俊太郎さん&元永定正さんの『もこ もこもこ』を例に出すまでもなく、そもそも「オノマトペは言語なのか?」とか、オノマトペによって言語の大局観を与えられた子どもが「抽象的な記号の体系である言語を習得するとはどういうことなのか?」とか、聖書をもじっていうところの「はじめにオノマトペありき」で始まった言語が「どのようにオノマトペから離れて巨大な記号の体系に成長していったのか?」とか、最終的には「なぜ人間のみが言語をもつのか?」とか、そういった問いです。探究の鍵を握るのは、すでに何度も出てきているオノマトペと、
ブーストラッピング・サイクル。
初耳です。簡単にいうと、試行錯誤のこと。詳しくは、今井さんと秋田さんの言葉を引きます。
そして、オノマトペから言語の体系の習得にたどり着くためには、「ブーストラッピング」という、今ある知識からどんどん新しい知識を生み、知識の体系が自己生成的に成長していくサイクルを想定する必要があると考察した。しかし、ブーストラッピング・サイクルが起動されるためには、最初の大事な記号は身体に接地していないといけないのだ。
小学1年生だったり2年生だったりにタブレットなんて触らせている場合ではないということです。授業そのものよりも言語環境だったり身体経験だったりが大事だということです。はじめに初等教育ありきということです。結論をちょっと飛躍させましたが、
なぜそう思ったのか。
ぜひ手にとって「なぜならば」を探してみてください。朝からザーザーと降っていた雨が、ピタッと止みました。外がシーンとしています。これから学校に行こうと思います。
いやだいやだ。
行ってきます。