それほど遠くない昔、我々は効果的にシェアを行っていた。小津安二郎監督の1953年の映画『東京物語』のなかにこんなシーンがある。
田舎から出てきた老夫婦が、一人暮らしの娘のアパートの部屋にやってきた。そこで娘は隣の部屋の主婦から酒を借りに行く。一升瓶を借りて戻った後、さらに徳利とおちょこも借りに行くと、ついでにピーマンの煮物も貰って戻ってくるのだ。
(鶴見済『0円で生きる』新潮社、2017)
おはようございます。前回のブログで紹介した小川糸さんの『針と糸』はベルリンでの生活を舞台にしたエッセイ集で、そのなかにこんなシーンがあります。
大きな荷物を抱えた配達人が、小川さんの部屋にやってきた。その荷物は小川さん宛に届いたものではなく、隣の住人に送られてきたものだった。つまり、隣人はいま不在だから、
帰ってきたら渡しておいてくれ、と。
小川さんはこの「隣人の荷物を預かる」という経験について、同タイトルのエッセイに《以前は、日本でもそういうことが普通に行われていたのではないだろうか。けれど、今だったらありえないだろう。信頼関係がなければ、成り立たないシステムだ》と書いています。続けて《このくらいゆるくても、別にいいんじゃないかなぁ》と書いています。おそらくは鶴見済さんも同意するのではないでしょうか。私もです。クラスづくりもそうですが、そのくらいゆるい方が、
信頼関係ができるんじゃないかなぁ。
小川さんの『針と糸』を読み終えた後に、鶴見さんの『0円で生きる』を読み始めたところ、同じようなことが書かれていて、
びっくり。
小川さんの『針と糸』の第3章のタイトルなんて「お金をかけずに幸せになる」ですからね。完全にシンクロしています。小川さん曰く《ベルリンにいて楽なのは、お金を使わなくちゃ、という強迫観念にかられないことだ》&《日本にいると、お金を使って消費することこそが、幸せになることだと信じ込まされているふしがある》云々。鶴見さんも同じような問題意識をもって生きているのでしょう。だから、
0円で生きる。
鶴見済さんの『0円で生きる 小さくても豊かな経済の作り方』を読みました。この本を読もう(!)と思ったのは、著者本人に《ブログの記事、とてもよかったです》と嬉しい言葉を贈っていただいたからです。
癒えました。ありがとうございますφ(..) https://t.co/NBkIPgWs0M
— CountryTeacher (@HereticsStar) August 17, 2024
贈っていただいたからには、お返しをしたくなるというのが人間の性でしょう。贈与の精神は今も我々の中にあって、歴史を紐解けば《資本主義よりはるかに深く普遍的な人間世界の岩盤》ということがわかりますから。以下、目次です。
第1章 貰う 無料のやり取りの輪を作る
第2章 共有する 余っているものを分け合う
第3章 拾う ゴミは宝の山
第4章 稼ぐ 元手0円で誰にでもできる
第5章 助け合う 一緒にやれば負担が減る
第6章 行政から貰う もっと使える公共サービス
第7章 自然界から貰う 無償の世界
目次を見れば明らかですが、鶴見さんの代表作である「あの本」のタイトルに倣うと、この本は『0円生活マニュアル』となります。もしも0円で生活しようと思ったら、こうすればいいよという「やり方」が詳しく書かれているからです。特に第3章以降はマニュアル感が、
強い。
例えば、第3章の「拾う」には、ゴミを拾うときの注意事項が箇条書きで17個も挙げられています。その内容はといえば、あまりにもリアルで、ちょっと引くレベル。長年ゴミ拾いを続けている野宿者のAさんから聞いた話を中心にまとめたそうで、鶴見さんの徹底ぶりがうかがえます。
3つ紹介します。
- 広げたゴミ袋は必ず元に戻しておく。まわりに散らかさない。
- 回収車が何時ころ来るのかを覚えておいて、閉店してゴミが出されてから回収されるまでの時間に行く。
- 花見後の公園のゴミ集積所は一年でも最大の狙い目。特に途中で雨が降った時は、飲み残し食べ残しが多く出る。ビールがケースごと捨てられていたこともある。大きな花火大会の後も同様。
ちなみに小川さんによると、ベルリンでは《まだ使えるものをゴミとして処分することはありえない》とのことで、例えばフライパンなんかを家の前に置いておくと、《たいてい目にした誰かが家に持ち帰っていく》そうです。本家もびっくりの「もったいない精神」ではないでしょうか。もちろん、もったいないの本家である日本にも不要品を回す仕組みはあります。例えば〈ジモティー〉のような不要品放出サイトの活用であったり、国立市や松戸市などの〈0円ショップ〉のような不要品放出市の活用であったり。そういった例が第1章の「貰う」にいくつも紹介されています。で、忘れてはいけないのが、第1章のサブタイトルになっている、
「無料のやり取りの輪を作る」でしょう。
仕合わせなことに、私の学年には、前々年度(4年生)、前年度(5年生)、そして本年度(6年生)と、継続して子どもたちにかかわってくれている大学の先生がいます。その先生が当初から「ただ」にこだわっているんですよね。0円コラボです。そしてまさに「無料」だからこそ「輪」が作られていってるなって、そう感じることのできる場面が多々あるんです。だから〈0円ショップ〉に関する次のような記述には共感しかありません。
また色々な世代の常連客ができて交流が行われたり、また簡単な店番なので、引きこもりだったり依存症を抱える人が社会復帰の足掛りとしても利用している。常連客・店番双方にとって、地域の居場所としての側面を持ちはじめているようだ。こうした活動が居場所の機能を持つようになることは、〈0円ショップ〉をやっていても強く感じることで、無料でやることの大きな意味と言える。
冒頭の引用もそうですが、無料だからこそできる関係性があるということです。1ミリもビジネスライクではないということです。鶴見さんもあとがきに《こうした無料のやり取りをしていると、この人間関係が明らかに濃くなることに気づく》と書いています。もちろん『人間関係を半分降りる』の鶴見さんらしく、きれいごとで終わらないように《なるほどお金を使うことは、人間関係の省略でもあったのだなとわかる。無料でやるということはある面では、お金の代わりに他人の力を借りることなのだ。ただし人間関係が増えるのが一概にいいことだとは言えない》とも書いていて、ほんと、わかってるなぁ。いつか、
0円で授業に来てほしいなぁ。
行ってきます。