田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

さくらももこ 著『ひとりずもう』より。私の人生は私のものでしかない。

 夏休み前に、短大の国文科への推薦希望者は、作文の模擬テストを受ける事になった。私は作文は得意だったので、気軽な気持ちで作文を書いた。
 その作文が、ものすごくほめられた。評価のところに、「エッセイ風のこの文体は、とても高校生の書いたものとは思えない。清少納言が現代に来て書いたようだ」とまで書かれていた。
(さくらももこ『ひとりずもう』集英社文庫、2019)

 

 こんにちは。もしもその模擬テストを採点した先生がさくらももこさんをほめなかったら、もしも三島由紀夫の初等科2年生のときの担任の先生が三島の綴り方をほめなかったら、もしも朝井リョウさんの小学6年生のときの担任の先生が朝井さんの作文に何の興味も示していなかったら、私たちは『ひとりずもう』も『金閣寺』も『何者』も読めなかった(かもしれない)わけですから、その先生たちに足を向けては寝られません。

 

 学校の先生って、大事。

 

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 不登校だった吉藤オリィこと吉藤健太朗さんだって、学校の先生との出会いが現在の活躍につながっているということを著書に書いています。

 

 学校の先生って、大事。

 

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 なぜ「学校の先生って、大事」と繰り返しているのかといえば、それは明日から本格的に仕事がリスタートするからです。大事だからがんばろうという自己暗示です。時をかけるゆとりもオリィさんの分身ロボットカフェに行くようなゆとりも全くなくなるだろうけどがんばろう。大事だ。がんばろう。大事だ。がんばろう。って、そんなふうにブツブツと口にせざるを得ないくらい、休みすぎました(有給休暇)。

 

 リバウンドで休みすぎました。

 

 リバウンドというのはもちろん、学期中の「働きすぎ」のことです。もしかしたら夏休みに休みすぎるからそのリバウンドで学期中に働きすぎるのかもしれません。さくらさんも《夏休みになり、睡眠時間以外の全ての時間を漫画のために注いだ。もう去年のような、何もしない夏休みではなかった》と書いています。極端が極端を生むということです。何もしないが、何かをしすぎるを生む。

 

 ひとりずもうが、作品を生む。

 

 

 さくらももこさんの『ひとりずもう』を読みました。エッセイストの宮崎智之さんが『つながる読書  10代に推したいこの一冊』(小池陽慈 編)の中で熱心に推していた、さくらさんの自伝エッセイ、小中高の青春編です。宮崎さんはこれまでに10回くらい読み返しているとのこと。この本は僕の親友なのです、とまで言い切っています。親友から受けた影響が熱狂レベルだったことは間違いありません。もしもさくらさんがいなかったら、より本質的に言い換えると、もしもさくらさんの高校のときの先生がさくらさんをほめていなかったら、私たちは「平熱のまま、この世界に熱狂する」こともできなかったというわけです。やはり、

 

 学校の先生って、大事。

 

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 私は、他の子供に比べて、性に関しての正しい知識がかなり遅れていた方だと思う。

 

 さくらさんの『ひとりずもう』の書き出しです。性に関しての正しい知識に限らず、同級生に比べると、思春期の始まりが遅かったようで、生理もなかなか来なかったとのこと。曰く《東海地震と生理は、いつ来るかわからないという不安が常に私の心に大きくのしかかっていた》云々。東海地震と生理って、うますぎます。さすがは清少納言です。なぜ赤ちゃんができるのか、それすらわかっていないという清少納言を見かねた中学校のクラスメイトが、さくらさんに青春の体験本を3冊貸してくれたというくだりでは、曰く《自分にはそんな無茶な事は不可能だと思い、もしもそんな事になったら、内臓破裂で死ぬのではないかと暗い気持ちになった》云々。内臓破裂って、春はあけぼのどころではありません。清少納言もびっくり。まさに、

 

 ひとりずもう。

 

 そんな事よりも、もう三学期が終わるというのに、私は何もしていない事に気づき、ハッとした。
 高校二年生の三学期が終わるという事は、高校に入って二年間分の月日が終わるという事だ。私はこの二年間というもの、何もしない青春を本当に送ってしまった。今までは、何もしない青春でもいいじゃないかと思っていたが、高校生活は残りあと一年しかない。

 

 で、覚醒します。漫画家になるという夢に向けて、です。

 

 私は毎日、明け方まで描き、昼まで寝て起きたらまた明け方まで描く、というふうにがんばっていた。下手だなァとかダメだなァとか思いつつも、全力だったのである。

 

 何もしないが、何かをしすぎるを生んだというわけです。ひとりずもうが作品を生むにつながったというわけです。吉本隆明(1924-2012)が『ひきこもれ』で書いていることと同じです。ひとりずもうもひきこもりも、似たようなもの。分身ロボットの開発者である吉藤オリィさんだって、思いっきり首肯するでしょう。

 

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 そういう気持ちを常に抱き、家族の冷たいセリフにも怒らずこらえた。私は今、自分の人生の夢に挑戦しているのだ。家族はそれぞれの夢があるんだか無いんだか知らないが、私自身の夢とは無関係だ。私の人生は私のものでしかない。私は今、何が何でもこれをやるのだ。

 

 東海地震と生理だったり、内臓破裂だったり、前半のそういった穏やかなモードから少しずつ変化していって、後半は《私の人生は私のものでしかない》という強いモードになります。強いというのは意志のことです。で、そのコントラストがまたうまいんです。子どもから「大人にもなる」という年頃の、ようよう強くなりゆく瀬戸際。その展開に、10代でなくても元気づけられます。ぜひ、手にとって読んでみてください。

 

 学校の先生って、大事。

 

 学校の先生って、大事。