そこはもう、ガウディの世界一色だった。ガウディの世界に触れた人は皆「ガウディは、子供心を失っていない天才だ!!」と一様に言うが、まさしくその言葉に尽きる。ガウディは天才だし、子供心を失っていない。
(さくらももこ『ももこの世界あっちこっちめぐり』集英社文庫、2021)
こんばんは。昨夜、子供心を失っていないかつての同僚2人と久闊を叙しました。一人は4年ぶり、もう一人は7年ぶりです。
楽しい。
まさしくその言葉に尽きる一夜でした。小見出しをつけるとしたら「3人の世界あっちこっちめぐり」となるでしょうか。18時から23時まで、ざっくりいうと「私たちはどこから来たのか、私は何者か、私はどこへ行くのか」ということについて、話に花が咲きっぱなしでした。それぞれの物語に、
酔った。
教育委員会には「いそぎ」っていう言葉があってね、命に関わること、訴訟になりそうなこと、議員から言われたことについては「いそぎ」で対応しなくちゃいけないんだよ。だから保護者が学校のことで議員に何かを訴えたとしたら、それは「いそぎ」の案件になるってことで、要するに、
ヤバイ。
教員採用試験の集団面接ではA~Eの評価をつけるんだけどね、以前までは面接官3人のうちの誰かがDまたはEの評価をつけたら、その時点で不合格になっていたんだよ。でもここ数年は教員不足で人が足りなくなっているから、Dがついたとしても合格にせざるを得なくて、要するに、
ヤバイ。
指導主事、育休、担任という「3人の世界あっちこっちめぐり」の中で、そんな話を聞きました。酔っていたので夢かもしれません。夢うつつの中で、たとえヤバイことがあっても、誰かが支えてくれればそれが物語になって、がんばれるよねって、そんな話を聞いたような気もします。さくらももこさん(1965-2018)が書いているように《ヘレンケラーにはサリバンあり、星飛雄馬には一徹あり、ガウディにはグエルあり》ですから。グエルというのはガウディに資金援助をしていたエウセビ・グエル伯爵のことです。それにしても、《星飛雄馬には一徹あり》って、うまいなぁ。さすがは「現代の清少納言」と呼ばれていただけのことはあります。
宮崎智之さんが『つながる読書』(小池陽慈 編)の中でさくらももこさんの『ひとりずもう』を推していたので本屋へ。しかし、ない。代わりに『ももこの世界あっちこっちめぐり』購入&読了。宮崎さんによると、さくらさんは高校時代に「現代の清少納言」と評されていたとのこと。わかるなぁ。#読了 pic.twitter.com/BOMOt3O8Y0
— CountryTeacher (@HereticsStar) August 20, 2024
宮崎智之さんが推している『ひとりずもう』が売っていなかったのは、小池陽慈さんの『つながる読書』を読んだ宮崎さんのファンが「書店あっちこっちめぐり」をした結果かもしれません。そうだとしたら、まさに、
つながる読書です。
さくらももこさんの『ももこの世界あっちこっちめぐり』を読みました。集英社が発売している月刊女性ファッション雑誌『non-no』の企画から生まれた旅エッセイです。編集者には「もう、どこへでも好きなとこに行って好きなことをしてきて下さい。別に non-no だからといって、オシャレな事を書かなくてはなどと考えなくてもけっこうですから」と言われたとのこと。
太っ腹です。
その頃の出版社には体力があったのでしょう。ちなみに掲載されていたのは96年、97年です。書籍・雑誌の売上げがピークだった時代。ガウディにはグエルあり、さくらももこには集英社あり。集英社のバックアップを受けた「現代の清少納言」は、JALのファーストクラスに乗って「世界あっちこっち」をめぐります。めぐった先は、以下。
スペイン・イタリア 編
バリ島 編
アメリカ西海岸 編
パリ・オランダ 編
ハワイ 編
番外編
旅エッセイではないですが、旅行記というと、私の場合、沢木耕太郎さんの『深夜特急』を筆頭に、小田実さんの『何でも見てやろう』とか、小林紀晴さんの『アジアン・ジャパニーズ』とか、蔵前仁一さんのもろもろとか、いわゆるバックパッカー系の本が頭に浮かびます。太っ腹ではない旅です。だからでしょうか。さくらさんの場合、行き先からして太っ腹だなぁと思うし、次のような場面も、
太っ腹だなぁ。
何度か決裂の危機を迎えながらもアリミニさんの絵は二十万で購入する事に決まった。三十七万から二十万になったのだから夫の交渉は大成功したといえよう。
これはバリ島での出来事(バイヤーとの交渉)ですが、その他、どこへ行っても太っ腹なんですよね。イタリアではガラス工芸店で三十万の金魚鉢を買い、アメリカではラスベガスで遊び、パリではピエール・ラニエの時計を買い漁りって、花輪クンもびっくりの展開です。でも、花輪クンもそうですが、
嫌味ではないんです。
嫌味の反対なんです。読めばわかりますが、愛される感じなんです。冒頭の引用をもじれば、ももこは天才だし、子供心を失っていないからかもしれません。アリミニさんとのエピソードは、次のように終わります。
私達はアリミニさんに別れを告げ車に乗った。陽のあたる家の前で、彼女はずっと手を振ってくれていた。よかった。彼女に会えて本当によかった。日本に帰ったら、私は彼女に一緒に撮った写真と色鉛筆を送ろうと思った。そして、いつかぜひ私のうちに遊びに来てもらいたい。言葉はあまり通じなくても、私と彼女はきっと一緒に絵を描いたり散歩に行ったりお茶を飲んだりして楽しく過ごすだろう。そういう事も手紙に書こうと思った。
いい話です。物語です。宮崎さんが『つながる読書』の中で、さくらさんのエッセイ集『もののかんづめ』を読んだときの感想として《「物語がない文章なのに、こんなにすらすらと読めて面白いなんて!」と驚いたものです》と書いていますが、物語はあるんです。モヤモヤの日々の中にも、旅先にも。それを、さくらさんも宮崎さんも観察・発見し、エッセイという形式ですらすらと読めるようなかたちにして、届けてくれているんです。つまり、
太っ腹です。
……自分が小説を書きつづけてきて最近思うのは、物語は本を開いたときに、その本の中だけにあるのではなく、日常生活の中、人生の中にいくらでもあるんじゃないかということです。
小池陽慈 編『つながる読書』の中で引用されている、小川洋子さんの『物語の役割』より。これです、これ。さくらさんの『ももこの世界あっちこっちめぐり』には、その役割を果たすべく、花輪クンや父ヒロシも登場します。さくらさん曰く《二十年経ち、私は父ヒロシをグランドキャニオンに連れてゆこうと思いたった》云々。物語のにおいがするのではないでしょうか。物語のにおいは全てのページに漂っています。気になったとしたら、
ぜひ手にとって読んでみてください。
おやすみなさい。