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堀越英美 著『親切で世界を救えるか』より。学校道徳とは異なる「ケアの倫理」とは?

 大正時代の貧しい炭焼き小屋の長男として生まれ、父亡きあと母を支えて家業と弟妹の世話と家事を担っていた炭治郎の行動の基盤は、「ケアの倫理」にある。ケアの倫理とは、儒教道徳のように秩序を守るために一般化された原理ではなく、それぞれ異なる他者の感情を想像し、配慮し、手を差し伸べるといった具体的な実践に価値をおく倫理である。兄とともに家を支えていた長女の禰豆子も、兄の倫理感を継承している。
(堀越英美『親切で世界を救えるか』太田出版、2023)

 

 こんばんは。儒教道徳とケアの倫理は、違う。では、学校道徳とケアの倫理はどうでしょうか。ライターの堀越英美さんによると、

 

 違う。

 

 

 自分も含めた個々の感情や欲求も大切にするかどうか。堀越さんが言うには、それが集団の秩序維持を優先してしまう儒教道徳や学校道徳と、ケアの倫理との違いです。

 

 挙手。

 

 自分も含めた個々の感情や欲求を大切にするために、集団の秩序維持を優先してしまうというのが学級担任の見方・考え方なんです(!)、だから同じなんです(!)、子どもたちには炭治郎や禰豆子のようになってほしんです(!)って、堀越さんが登壇したトークイベント(B&B)に、この本を読んだ上で参加していたとしたら、手を挙げてそう伝えたかったところです。が、残念ながら読まずにというか知らずに参加してしまいました。対談相手の勅使川原真衣さんがお目当てだったからです。

 

 

 

 

 そういえば、勅使川原真衣さんのトークイベントに初めて参加したときも同様でした。対談相手の磯野真穂さんがお目当てだったので、勅使川原さんの本は未読だったんです。そのときのことは以下のブログに書きました。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 対談で印象に残ったのは、堀越さんの次女さん(小学生)が、自閉スペクトラム症(ASD)だということ。学校道徳に対する堀越さんのネガティブな見解は、子育ての経験から来ているのだろうなと思いました。ASDの児童と日本の学校教育って、水と油のような関係にありますから。過日、同じ会場(B&B)で、ASDであることを公言している横道誠さんも似たようなことを話していました。学校教育にはよい思い出があまりない、って。先生たち、過労死レベルで働いているのに、報われないなぁ。誰か、

 

 親切で学校を救ってほしい。

 

 

 堀越英美さんの『親切で世界を救えるか』を読みました。目下のマイブームである勅使川原真衣さんのトークイベントに参加したところ、その対談相手が堀越さんだった&サインをほしくなった、というのが本を購入したきっかけです。購入して、

 

 よかった。

 

 学級通信に引用して子どもたちや保護者に紹介したい(!)という文章がたくさん見つかったからです。目次は以下。 

 

 第1章 ケアの復権
 第2章 暗がりから見つめるケア
 第3章 家父長制に抗うケア
 第4章 絆ではなく「親切」でつながるには

 

 小川公代さんの『ケアする惑星』と似たアプローチで、多様な作品を通して「ケア」が論じられています。違いはといえば、取り上げられる作品に「これ知ってる!」という「近さ」を感じられるところでしょうか。大学教授である小川さんが取り上げる作品は、めちゃくちゃ勉強になるとはいえ、ちょっと、

 

 遠い。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 漫画&映画『鬼滅の刃』(親切ゆえに注釈をつけると、冒頭の引用にある「炭治郎」というのは『鬼滅の刃』の主人公のことです)とか、小学校の道徳の教科書に出てくる「手品師」とか、村田紗耶香さんの『コンビニ人間』とか、横道誠さんも著書で紹介していたドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』とか、カトリーン・キラス゠マルサルの『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』とか、映画『すずめの戸締まり』とか、それからカート・ヴォネガット・ジュニアとか。「近さ」というのはそういうことです。まぁ、私だけかもしれません。学級通信に引用したいなぁと思った例を、

 

 以下にひとつ。

 

 強者だけが生きのびるに値するという社会ダーウィニズムを「自然の摂理」として突き付ける鬼に、24時間ケアが必要な赤ちゃん育児を知る炭治郎は「人間は相互にケアしあわなければ生きのびることができない」というもう一つの自然で対抗する。

 

 受験ダーウィニズムを「自然の摂理」として採用する塾に対して、あるいは受験学力を要請してくる企業や社会に対して、小学校は炭治郎&著者が言うところの「もう一つの自然」で対抗しています。少なくとも私はそう思いながら学級づくり&授業づくりをしています。だから、学校道徳を批判する下りで出てくる次のエピソードには、近さを感じつつも、

 

 違う、と叫びたい。

 

 先生が「両方を救っちゃダメ」と言わざるをえないのはわかる。「手品師」はそもそも、文科省が定めた道徳の内容項目のうちのひとつ「正直、誠実」を教えるための題材だからだ。いくら議論させようが、先生が内心どう思っていようが、正解は「少年との約束を選ぶ」一択だ。先生は子供たちの答えを、国が考える唯一の正解に誘導するよりほかない。

 

 道徳で「手品師」の授業を受けたときに、長女さんが不満を爆発させたそうです。納得がいかない、と。ケアの倫理に則り、手品師のことも少年のことも手品師の友人のことも考えた上で、つまり登場人物全員の感情や欲求を考えた上で《事情を説明する置き手紙を置いて子供をサーカスに招待する》って答えたという長女さん。その長女さんが不満を爆発させながら「子供との約束をとるか、夢をとるか、そんな極端な二択でなくてもいいじゃないか」ということを言わざるをえないのは、

 

 わかる。

 
 手品師の内容については検索してみてください。いわゆるモラルジレンマ教材です。モラルジレンマ教材って、基本的に二択なんですよね。有名なところで言うと、ハインツのジレンマ(この本でも取り上げられています!)もそうです。だから著者の言いたいことはわかります。でも、約束に対して「正直、誠実」であるべきか、夢に対して「正直、誠実」であるべきか、と教材研究をすれば、少なくとも正解は一択ではなくなるはずです。それに、国のキャッチフレーズ(?)は「考え・議論する道徳」なので、子どもたちを「考え・議論する」ことに誘導することはあっても、唯一の正解に誘導したりはしないはずなんです。担任がそのように誘導していたとしたら、それはきっと、

 

 疲れているからでしょう。

 

 業務量が多すぎて、学校がヤバイということです。つまり、親切で学校を救えるか、という話です。いつか教室が〈ケアする学校〉の名にふさわしい場所になることがあるとすれば、それは、

 

 教員が大切にされるときだろう。

 

 おっと、ついつい教員の話を展開してしまいました。堀越さんの『親切で世界を救えるか』で展開されているのは、主に「女性の話」です。具体的にはケア労働を強制させられてきた女性の話です。

 

 ケアの復権について考える際に注意しなければならないのが、「無償で家事・育児・介護・地域奉仕を担う女性はすばらしい。だから女は賃金や学問なんが求めないで、おとなしくケア労働をしていなさいね」という従来の婦徳に回収されかねない点である。

 

 頷く人が多いのではないでしょうか。堀越さんは、自身の半生を振り返って《ケア労働に閉じ込められて、面白いことから引きはがされてしまうのが怖かった》と書きます。だからこそ個々の感情や欲求を想像した上で行動できる炭治郎がそうであるように、

 

 ケアできる人はかっこいい!

 

 そういった価値観が生まれ始めている「いま」を、カート・ヴォネガット・ジュニアが「愛は負けても、親切は勝つ」と予言した延長線上にある「いま」を、読者と共有することで《「ケア」が抑圧的で退屈でダサかった冷笑の時代》、つまり悪しき家父長制の時代を終わらせたい。堀越さんはそう考えているのでしょう。数多くの「近い」作品を通して、堀越さんは問い続けます。

 

 親切で世界を救えるか。

 

 おやすみなさい。