田舎教師ときどき都会教師

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ジェリー・Z・ミラー 著『測りすぎ』より。働きすぎ。飲みすぎ。どれもよくない。

世の中には、測定できるものがある。測定するに値するものもある。だが測定できるものが必ずしも測定に値するものだとは限らない。測定のコストは、そのメリットよりも大きくなってしまうかもしれない。測定されるものは、実際に知りたいこととはなんの関係もないかもしれない。あるいは、本当に注力するべきことから労力を奪ってしまうかもしれない。そして測定は、ゆがんだ知識を提供するかもしれない ―― 確実に見えるが、実際には不正な知識を。
(ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』みすず書房、2019)

 

 こんばんは。測定できるものといえば、労働時間です。労働時間は測定するに値するものでもあります。タイムカードで「ピッ」とすればいいだけなので、測定のコストもかかりません。だから、

 

 測定するようになった。

 

 それにもかかわらず、教員の長時間労働がなくならないのはなぜでしょうか。いったい何のために測定しているのでしょうか。ちなみに私の7月の残業は72時間でした。無償なのに、

 

 働きすぎ。

 

野生の思考(2024.8.3)


 学期中の「働きすぎ」の反動でしょう。夏季休業中は「飲みすぎ」になりがちです。昨日は「野生の思考」と書いてあるクラフトビールが目に留まったので、レヴィ=ストロースのタイトルと同じですね(!)って思わず売り子氏に話しかけたところ、そうなんです、哲学つながりで仕入れました、と返ってきたので嬉しくなって購入&その場で飲んでしまいました。レヴィ=ストロースの「野生の思考」は、論理的な思考や直線的な思考ではなく、非論理的で連想的な思考のことを指します。で、連想しました。測りすぎがダメなのは、そしてパフォーマンス評価が失敗するのは、この「野生の思考」が欠けるからではないか。

 

 酔っ払いの戯言です。

 

 

 ジェリー・Z・ミュラーの『測りすぎ』(松本裕 訳)を読みました。サブタイトルは「なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?」です。読もうと思ったきっかけは、教育研究家の妹尾昌俊さんが勧めていたから。

 

 管理職にも勧めたい。

 

 

 所見のない、教科のABCだけの通知表は、冒頭の引用でいうところの「ゆがんだ知識」に相当するように思えて仕方がありません。そう思うのは、勤務校の通知表には「思いやり・協力」などを評した、いわゆる「行動の記録」欄がなく、まるで教科のABCだけが人間の「能力」であるかのような錯覚を子どもたちに与えている気がするからです。市の学力・学習状況調査だったり、全国学力・学習状況調査だったりが、その錯覚に拍車をかけます。測れば測るほど、テスト至上主義みたいになっていって、

 

 人間観がゆがんでいく。

 

学校は世界に対する関心を刺激し、習慣的な行動(自制心、忍耐力、他者と協力する能力)をはぐくみ、大人になってから成功する可能性を高める場だ。こうした非認知的特性は、テストの点数に基づく実績測定に反映されることなく、教室や学校ではぐくまれているかもしれないのだ。

 

 定量化はできないものの、他者と協力する能力の涵養こそ、学校のレーゾンデートルではないでしょうか。定量化できるもの、すなわち教科のABCのような《テストの点数に基づく実績測定》だけに光を当てるのは、うん、よろしくありません。著者のジェリー・Z・ミュラーは、母国のアメリカで注目を集めた「落ちこぼれ防止法(どの子も置き去りにしないために、説明責任と柔軟性、選択肢をもって学力格差をなくすための法律)/NCLB」を例に、その弊害を説明します。

 

 NCLBのテストと説明責任の手法がもたらした意図せぬ影響は目に見えやすく、測定執着に特徴的な落とし穴の実例がいくつも見られる。

 

 測定に執着するようになった結果、授業の内容がテストの練習ばかりになったり、音楽や体育などの教科が軽視されるようになったり、果てはテストの点数の低い子どもを学校から排除し始めたり、そういった落とし穴の実例が次々と報告されるようになったそうです。なぜか。子どもたちのテストの結果と教師の給料や昇級をリンクさせたからです。いわゆる「能力給」ってやつです。

 

 学校だけではありません。

 

 例えば病院では、手術の成功率を上げるために難しい患者の受け入れを拒否するケースがどんどん増えていったとのこと。これも「手術の成功率」という定量化できるところだけに光を当て、それを医師の給料や昇級に紐づけた結果としての落とし穴でしょう。

 

 能力給と「測る」は相性がいい。

 

 テストの点数だったり、手術の成功率だったり、数値化できるところだけを測って、それを直線的に「能力」として捉え、給料に反映させる。一見、論理的です。つまり、野生の思考の反対です。

 

 だから、失敗する。

 

 言い方を変えると、人間観が単純すぎるということです。故に、パフォーマンス評価は失敗する。人の魅力は、そう簡単には測れません。そして、測れないことにこそ価値があります。

 

 

 本日、まるねこさんに会いました。まるねこさんは「猫」というだけあって「野生の思考」の持ち主でした。まるねこさんの数年後の何かに、私も興味を持ち続けると思います。『測りすぎ』からの孫引きですが、最後に哲学者のモシェ・ハルベルタールの言葉を引きます。曰く《自我は露出と親密度のさまざまな度合いを表現することによって特別な関係を構築し得る。人は社会という空間の中で露出と秘匿を配分し、さまざまな距離や親密さを構築しながら生きているのだ》云々。

 

 また、会いましょう。

 

 おやすみなさい。