それでもいま教師になろうとする人の多くは、きっと教師という仕事を「それでもやりがいがあるはずだ」と選んでいるとおもいますし、実際に仕事をしながら、そのかたちはさまざまでしょうが、なんらかの意義を感じてもいるでしょう。でも、それがこのような労働条件の過酷さがスルーされていく条件なのです。それ以上のことを要求すると、「ふざけるな、やりがいがあるだろう」「そんな仕事をしていて物質的厚遇を求めようなんて、なんて欲深いんだ」となるわけです。
(酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』講談社現代新書、2022)
おはようございます。学期末のこの時期、ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、通知表の作成です。法的には作る義務も渡す義務もないのに、そして費やしたエネルギーに見合った教育効果もないのに、勤務時間外に膨大なプライベートタイムをそこにつぎ込まなければいけないわけですから。せめて所見を年に1回にするとか、4年生まではABC評価をしないとか、通知表の代わりに毎学期保護者(+子ども)と面談するとか、そういった方向に舵を切ることはできないものなのでしょうか。よりエッセンシャルな方向に、です。
通知表の謎。
酒井隆史さんの『ブルシット・ジョブの謎』を読みました。種本となっているのは、酒井さんが翻訳したデヴィッド・グレーバーのベストセラー『ブルシット・ジョブ』です。人類学者のグレーバーが発見・構築した「くそどうでもいい仕事の理論」をより多くの人に届けたい、特に、誰も見ない書類の作成(小学校でいうところの指導要録)や上司の虚栄心を満たすだけの仕事(小学校でいうところの研究発表)に悩み苦しんでいる人たちに届けたい、というのが酒井さんの願いです。私には届きました。
以下、目次です。
第0講 「クソどうでもいい仕事」の発見
第1講 ブルシット・ジョブの宇宙
第2講 ブルシット・ジョブって何だろう
第3講 ブルシット・ジョブはなぜ苦しいのか?
第4講 資本主義と「仕事のための仕事」
第5講 ネオリベラリズムと官僚制
第6講 ブルシット・ジョブが増殖する構造
第7講 「エッセンシャル・ワークの逆説」について
第8講 ブルシット・ジョブとベーシック・インカム
おわりに わたしたちには「想像力」がある
あとがき
グレーバーが発見した「クソどうでもいい仕事」とは何かといえば、例えば《〔マンションの〕住人がロビーを通るたびにあいさつして、正面玄関の開閉ボタンを押す》仕事や《需要を捏造し、そして商品の効能を誇張してその需要にうってつけであるようにみせる》仕事、あるいは《引出しにしまわれた後は二度と日の目を見ることはない年次評価を血みどろになって作成する》仕事など。オランダで行われた調査によれば、労働者の約40パーセントが自分の仕事はブルシット・ジョブだと認識しているというのだから驚きです。
小学校でいえば、誰も見ない指導要録や見栄え重視の行事や研究などがブルシット・ジョブに該当するでしょう。まぁ、教育という仕事そのものはエッセンシャル・ワークなわけであって、ブルシット・ジョブとは対極に位置しているのですが。しかしだからこそ冒頭に引用(第7講より)したように、増殖するブルシット・ジョブ(キャリアパスポートなど)によって労働条件の過酷さが増したとしても、「ふざけるな、やりがいがあるだろう」で終わってしまう、それこそ「ふざけるな」という構造が生まれてしまっています。いわゆるエッセンシャール・ワークの逆説と呼ばれる構造です。
その労働が他者の助けとなり、他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなる。
ひどい話です。
白眉は第4講から第6講でしょう。ブルシット・ジョブが世の中にあふれているのは、資本主義のメカニズム、具体的には「タスク指向」だった労働が「時間指向」に変わってしまったことが原因であるという「クソどうでもいい仕事の理論」が書かれています。
収穫の時期になったからみんなで朝から晩まで働こう、収穫を終えたら寝て過ごそうというのがタスク指向。収穫の時期ではないけれど、雇われているからにはその時間は雇用主のために捧げなければいけないからとりあえず何かしていようというのが時間指向。当然、時間指向ではでっちあげの仕事や意味のない仕事、つまりクソどうでもいい仕事が増えていきます。
昔、小学校の教員にはゆとりがあった。
そこに「時間指向」が加わることによって、すなわち資本主義が加速することによって、クソどうでもいい仕事が増えていった。現在、私たち教員が多忙に苦しめられているのは、そのブルシット・ジョブをやめることができないから。ブルシット・ジョブが慣習となってしまったから。
部活や校則、宿題も、人間のなにかを向上させるというよりは、こいつらは放置させるとろくでもないから、とにかくなにかのルールに恒常的に服従させ、なにかをさせておくべきであるという発想がその根底を支えているようにみえます。学業はジョブではないので、BSJではありませんが、日本社会は、幼少期から規律的意味しかない無意味な規則や挙動を長時間強いられることで「ブルシット・ジョブ」への耐性がよそよりもあるといえるかもしれません。
そんな日本社会で、BSJ(ブルシット・ジョブ)をやめるためにはどうすればいいのか。労働環境の過酷さゆえに教員不足に陥り、義務教育の存続自体が危うくなっているにもかかわらず、法的根拠のない通知表すらやめられない学校をどうすればいいのか。社会学者の宮台真司さんの《「原発をどうするか」から「原発をやめられない社会をどうするか」へ》を真似れば、「BSJをどうするか」から「BSJをやめられない学校をどうするか」へ。BSJのところを「部活」や「校則」、「宿題」に置き換えても同じです。著者の酒井さんはこう言います。
わたしたちには「想像力」がある。
想像しよう、通知表のない学校を。