将棋ソフトはまずもって、棋士が育んできた将棋観を揺るがす異質な他者として現れた。棋士が鍛えてきた精緻な物語的思考。それが人間の思考に一定の制約を与えるものでもあることが、流れを考慮しないソフトの数値的思考と関わるなかで明らかになったのである。だが、棋士にとってソフトの思考が異質であるように、ソフトにとっても棋士の思考は異質なものとして現れる。
(久保明教『機械カニバリズム』講談社選書メチエ、2018)
こんにちは。10日間の自宅療養期間が終わり、昨日、久し振りに家の外に出ました。うん、暑すぎる。あまりの暑さに小さな幸せどころではありません。
自宅療養7日目。今日、一足先に療養期間を終えた友人が「久々の外の世界は楽しすぎた」ってメッセージをくれた。幸せのハードルが下がったみたいで、歩いているだけで楽しかったとのこと。イスラム教のラマダンみたいなものだなと思う。小さな幸せに気づくようになる。コロナの効用かもしれない。
— CountryTeacher (@HereticsStar) July 27, 2022
自宅療養はイスラム教のラマダンみたいなものっていう考え方は、我ながら、よい。異文化理解を得意とする人類学者も頷いてくれるのではないでしょうか。
久保明教さんの『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』を読みました。カニバリズム(人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣)なんていう怖い言葉をタイトルに使っている本を手にしたのは、暑さ対策でヒヤッとしたかったからではなく、川上量生さんが《21世紀の人類の最大の哲学的テーマであると思う》と本の帯に賛辞を寄せているからでもなく、ただ単に知り合いの大学の先生に勧められたからです。
3冊とも人類学の本です。木村大治さんの『見知らぬものと出会う』は他者としての宇宙人を、小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学』は他者としてのタンザニアの都市生活者を、そして久保明教さんの『機械カニバリズム』は他者としての機械を研究対象にすることで、コミュニケーションの成立条件や、今を豊かに生きるための視点・視野・視座、人類にとってテクノロジーとはいかなるものであり/いかなるものでありうるかという、それぞれの「問い」に迫ります。久保さんのそれがユニークなところは、対象が「人」ではないというところでしょうか。
目次は以下。
第一章 現在のなかの未来
第二章 ソフトという他者
第三章 探索から評価へ
第四章 知性と情動
第五章 強さとは何か
第六章 記号の離床
第七章 監視からモニタリングへ
第八章 生きている機械
メインは、第二章~第五章で取り上げられる「将棋電王戦」についての議論です。プロ棋士が勝つのか。それとも将棋ソフトが勝つのか。あるいは勝ち負けとは異なる世界線に突入するのか。パラフレーズすると、
私たちの未来はどうなるのか。
人間と知能機械が織りなす相互作用のモデルケースを参照することで、例えば担任とICTが織りなす相互作用の未来についても想像力が豊かになります。大学の先生(教員養成系)がこの本を勧めてくれたのも、そういった理由あってのことかもしれません。
人間は、前からの手を継承する「線」で考えます。だから「線」が繋がらない時は、何か勘違いがあったと考えるし、予定変更を余儀なくされたのかなと考えて、次の一手を選びます。コンピュータは一手指すと、その局面で考えた新たな手を加えてくることがあるので、二手先、三手先で最善手が変わるというか、人間ならこの流れにならないという手が出てきます。その意味では、「点」で考えているといえます。人間は、一手前とは違う人が指したような手に対応しなければならないので、読みの量は増えるし、疲労もたまるわけです。
これは将棋ソフト「ツツカナ」と対戦したときの棋士・阿久津主税さんの言葉です。冒頭の引用でいえば、阿久津さんの「線」は「物語的思考」に、ツツカナの「点」は「数値的思考」に換言できます。教師は「物語的思考」(ナラティブ)に偏り、医師は「数値的思考」(エビデンス)に偏る。そんな話を思い出したりもしましたが、ここでいいたいことは、知能機械と人間では、そもそもの思考回路が異なるということ。
知能機械 ≒ 他者
小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学』でいえば、将棋ソフトの「ツツカナ」がその日暮らしの「キリギリス」で、阿久津さんがその日暮らしとは無縁の「アリ」となるでしょうか。ポイントは、アリとキリギリスが没コミュニケーションだったのに対して、人間は機械という宇宙人に出会ったことで、将棋の語り口、学校の言葉でいえば「見方・考え方」を変えざるを得なくなったというプロセスにあります。
電王戦における人間と機械の相互作用において際だって現れたのは、両者が互いに異質な思考を通じて将棋というゲームに参加しているという状況であり、そこにおいて、物語と数値がたがいにたがいを相対化していくプロセスであった。ソフトという新たな周縁からの訪問者は、現役棋士との勝負によってその実力を認めさせただけでなく、棋士が進めてきた棋理の探求とは異なる仕方で、将棋というゲームがもつ「無限の可能性」を知らしめた。だが、それは同時に、論理的計算を間違えない知能機械が人間の物語的思考にとっては自明な事柄を容易には捉えられないという事態を示す出来事でもあったのである。
将棋ソフトが将棋の語り口を変えてしまったように、飲食店検索サービス「食べログ」は外食の語り口を変え、ブログや Twitter などの SNS は生活の語り口を変え、ICT やタブレット端末は授業の語り口を変えつつあります。その他もろもろ、知能機械が人間の語り口を変えつつある例は枚挙にいとまがありません。つまりはそれが、
機械カニバリズム。
ただしそれは、機械が何でもやってくれるようになるとか、機械が人間を支配するとか、一時期話題となったシンギュラリティ(技術的特異点)とか、そういった二項対立的な、代替的な、あるいは勝ち負け的な未来を意味しているわけではありません。久保さんが伝えたいのは、機械を他者としてとらえることで、人間と機械が混ざり合い、人間も機械も違うものへと生成変化していくプロセス、学校でいうところの「成長」を遂げていくようなプロセスが期待できるのではないかという「未来」のことです。
人間が機械の視点から自らを捉え、自らを作り上げていく機械カニバリズムは、人間という外在的な基準に依拠せずにさまざまな存在を比較し、私たちがさまざまな他者へと生成変化していくプロセスにも開かれているのである。
さまざまな存在というのが、宇宙人であり、タンザニアの都市生活者であり、そして知能機械なのでしょう。副題となっている「人間なきあとの人類学」は、当たり前になっている《人間という外在的な基準》を放棄することによって基礎づけられます。大切なのは、当たり前を疑うということ、生成変化&成長のプロセスは他者との出会いによって生じるということ。だからこそ、
教室に他者を。
教室に変化を。