田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

木村大治 著『見知らぬものと出会う』より。もしも宇宙人みたいな子どもと出会ったら。

「あいつは宇宙人だ」と言われる人物はたくさんいるが、ここではまずその代表として、元首相の鳩山由紀夫氏に登場していただこう。グーグルで「鳩山由紀夫 宇宙人」で検索をかけると、約24万5000件のヒットがある。この比喩は広く日本人に共有されていると言ってよいだろう。
(木村大治『見知らぬものと出会う』東京大学出版会、2018)

 

 こんにちは。自宅療養10日目、最終日です。いや~、長かった。部屋に隔離され、家族ともいっさい顔を合わせなかったので、それこそ宇宙人とでも交信したい気分になりました。

 

 そこで今日はこんな本。

 

 

 木村大治さんの『見知らぬものと出会う ファースト・コンタクトの相互行為論』を読みました。教員養成系の大学で働いている先生に勧められて購入した1冊(全3冊)です。本の帯に書かれている誘い文句は、

 

「宇宙人」の人類学。

 

大学の先生に勧められた本(全3冊)

www.countryteacher.tokyo

 

 目次は以下。

 

 第1章  「宇宙人」という表象
 第2章 投射 ―― 想像できないことを想像するやり方
 第3章 コンタクトの二つの顔
 第4章  「規則性」の性質 ―― 不可知性、意外性、面白さ
 第5章  「規則性」のためのリソース ―― コードなきコミュニケーションへ
 第6章 ファースト・コンタクトSFを読む
 第7章 仲良く喧嘩すること
 第8章 枠・投射・信頼

 

 キーワードは「投射」と「規則性」です。大量のSF作品を手がかりに、宇宙人の内在的論理を想像するために必要となる投射や規則性という問題を考え、見知らぬものとのコミュニケーションの成立条件を明らかにする一冊。

 

 もしも宇宙人に出会ったら。

 

 勧められなければ絶対に手に取らなかったであろうこの得体の知れないSFチックな本を読み進めながら「あっ、そういうことか!」と思ったのは、なぜこの本を勧められたのかというその理由です。

 

 宇宙人 ≒ ユニークすぎる子

 

 クラスにいるユニークすぎる子とどのようにコミュニケーションをとっていけばいいのかを考えたときに、その子を宇宙人と見立ててしまえば、この木村さんの「ファースト・コンタクトの相互行為論」は役に立ちますよ。おそらくはそういうことでしょう。宇宙人が代理しているのは、ひとことでいえば「他者」ですから。

 この「宇宙人 ≒ ユニークな子」という等式をイメージしやすくするために、木村さんも引用している、筒井康隆さんの『最悪の接触(ワースト・コンタクト)』の一部を孫引きします。登場するのはマグ・マグ人という宇宙人。以下、マグ・マグ人の代表であるケララと地球人の代表であるタケモトさんが、試験的に共同生活を始める下りより。

 

「よろしく。タケモトです」
ところがマグ・マグ人は両手を背中の方へまわしたまま、おれにうなずき返した。「よろしく。ケララです」
両手をうしろへまわすことによって恭順の意を示す種族も二、三ある。おれもあわてて両手を背中に回した。
その途端、ケララというそのマグ・マグ人は、背中に握っていた棍棒をふりかざし、おれの脳天を一撃した。
眼がくらんだ。「いててててててて」
〔・・・・・・〕
ケララはにこにこしていた。「よかったね。死ななかったね」
怒りを忘れ、おれは一瞬唖然とした。相手の意図を悟ろうとしながら、おれはゆっくりと椅子に腰をおろした。「死ぬところだったぞ」「あなたを殺して何になりますか」ケララは笑いながら、テーブルをはさんで俺と向かいあい、腰をかけた。「死なないように殴ったよ」
またもや怒りがぶり返し、おれはテーブルを叩いてわめいた。「だから、なぜ殴ったと訊いているんだ」
ケララは真顔になり、ちょっと怪訝そうな表情をした。「だから言ったでしょ。私はあなたを、殺さなかった」
おれは憤然として立ちあがり、わめいた。「殺されてたまるか」
「なぜそんなに怒る」ケララもあわてた様子で立ちがあがり、心から不思議がっている顔つきでおれを見つめた。「あなたはわたしに殺されなかったのだから、しあわせではないか」

 

 こういう子がいるんです。棍棒のような言葉をふりかざし、明後日の方向から担任の脳天を一撃するような子です。出会いの頻度としていえば、10年に1度、いや、20年に1度くらいでしょうか。そういった宇宙人みたいな子どもに出会ったときに、私たち教員はどうすればいいのか。

 

 おもしろがるしかない。

 

 現場の知恵としてはそうなります。おもしろがりながらその子の内在的論理を理解するしかない。第4章のタイトルにある「不可知性、意外性、面白さ」に通ずる知恵です。ちなみに木村さんは第6章でファースト・コンタクトを描いたSFを参照しながら、未知の他者(宇宙人)を「友好系」と「敵対系」、そして「わからん系」に分類し、次のように書きます。ケララはもちろん「わからん系」です。

 

 ここまで「わからん系」と名づけた他者の例を、SFを中心に紹介してきた。友好的にせよ敵対的にせよ、何らかの意味で共在の枠を共有している相手とは違って、そこには「取り付く島のなさ」とでも言うべき状態があらわれていた。しかしここで考えなければならないのは、そういった他者に対した人間が、なんとかしてそれに「取り付こう」と努力しているということである。つまり彼ら(それら)は、端的に不可知というのではなくて、ひょっとしたら理解できるかもしれない、という中途半端な存在なのである。
 なぜそう思わされるのかというと、それは、彼ら同士の間では、何らかの規則性・整合性を持ったコミュニケーションがおこなわれているらしいからである。~略~。『最悪の接触』でも、ケララの行動の動機づけはまったく理解できないが、そういった行動はマグ・マグ人の間では普通のことであって、ケララとの支離滅裂なやり取りを記した「おれ」のレポートは、彼らの間では「人間がよく描けている」と評されたのだった。

 

 数年前、宇宙人のような子に「そろそろ俺の扱い方を学べよ」と捨て台詞を吐かれたことがあります。まだ10歳になったばかりの「子ども」でしたが、換言すると、上記の引用でいうところの《規則性・整合性》をつかめという訴えなのでしょう。規則性・整合性をつかむことで、共有できる共存の枠をつくれ、と。いや~、大変だった。

 

 もしもまた宇宙人と出会ったら。

 

 コミュニケーションとは相互の行為に規則性を作り上げていくこと。問題は、それをしようと思うかどうか。とりあえず相手を、そして世界を信じてみるという「見返りを求めない信頼」をベースにすること。木村さんのそういった言葉を思い出して、ファースト・コンタクトを楽しみたい。そう思います。

 投射については、以下の言い回しだけの紹介に留めます。木村さん曰く「他者は宇宙人を支持点とした、手前方向の投射だ」云々。この言い回しが気になる方、宇宙人みたいな子どもとのコミュニケーションに困っている方、そしてSF好きの方は、ぜひ読んでみてください。

 

 あと半日で部屋から出られます。

 

 いざ、宇宙へ。