田舎教師ときどき都会教師

テーマは「小学校教員の働き方と生き方」&「本、旅、人」

サイボウズの「公明正大」と「自立」をチーム学校にも!

 長年、多様性について議論と実践を重ねる中で、私たちが個人に要求するイズムも徐々に見えてきた。それは「感謝」でも「努力」でも「誠意」でも「変化」でも「進歩」でも「協調」でもない。多様性を維持し向上させていくには、「公明正大」と「自立」が必要。嘘をつかないことと、人のせいにしないこと。簡単そうで、難しいテーマである。
(青野慶久『チームのことだけ、考えた。』ダイヤモンド社、2015)

 

 昨夜、中学校のときの部活の仲間(♂)と四半世紀ぶりに再会しました。会おうと思えばいつでも会えると思える人には絶対に会えない、という昔から大切にしている言葉と、アラフォーになってからしばしば感じるようになった「いつ過労死してもおかしくないなぁ」という思いに後押しされて、再びつながった「縁」です。

 

 ライブドアで働いていた。

 

 びっくりしました。頭と顔と性格がよかったので、それなりに派手な人生を送っている予感はあったのですが、まさかのヒルズ族(当時)。私が遠洋漁業の基地と呼ばれる小さな田舎町で保護者と一緒にノホホンと比目魚を釣っていたときに、同じ釜の飯を食った仲間が六本木でホリエモンと一緒に女を釣っていたなんて。違う。ホリエモンと一緒に働いていたなんて。

 

 怖いイメージ。

 

 堀江貴文さん(ホリエモン)のことはそう話していました。一般の社員はそう思っていたんじゃないかなって。電話にすぐ出なかった部署があったりすると、ぶち切れて電話線を引っこ抜き、「お前ら今日から個人のピッチで仕事しろ」みたいなことがよくあったそうです。こわっ。

 東京地検特捜部が来た日も会社で働いていて、パソコンに触れないでください、持ち帰りはしないでください、手荷物チェックをします、みたいな感じでなかなか帰れずに大変だったとのこと。友人がそんな大変な目に遭っていたときに、私は教室で「置き勉は駄目だよ」とか言っていたのだろうなぁ。牧歌的だなぁ。

 

f:id:CountryTeacher:20191024213615j:plain

03年、冬の六本木ヒルズ。友人とすれ違っていたかも。

 

 めちゃくちゃ働いていたからさ、口から泡を吹いて救急車で運ばれるような人もいて、俺、人間が口から泡を吹くの初めて見たよ。そんな話題に事欠かなかったライブドアを家宅捜査の後に辞め、今は別のIT系企業で経営企画室の室長を務めている友人。昔話や仕事の話だけでなく、ギャラ飲みとかガールズバーとか、教員の世界ではあまり耳にしない「ゆるい話題」をときおり投げ込んできては、カラフルなエピソードを交えながら、主体的・対話的に、そして深く語ってくれました。

 

 アナザーワールド

 

 以前、「100人100通り」の働き方ができる会社として知られる、サイボウズ(株)の見学をしたときにも思いましたが、カラフルな生き方や働き方ができる仕事って、魅力的だなぁと思います。

 

f:id:CountryTeacher:20191024231137j:plain

サイボウズ見学(17)

 

f:id:CountryTeacher:20191024231205j:plain

こんな学校だったら、教職の魅力アピールは成功します。

 

f:id:CountryTeacher:20191024231304j:plain

未来へ、タイムスリップ

 

 案内してくれたサイボウズの社員さんが「学校に行くとタイムスリップしたみたいな気持ちになる」と話していました。未来ではなく、もちろん「過去に」です。その変わらなさというか、色のなさに、教職の未来の灰色さを感じます。

 今日のニュースに「小学校教諭 落ち込む人気 多忙イメージ、学生ら敬遠」とありました。イメージではなく、事実として多忙だし、学生らが敬遠するのも当たり前です。サイボーズ社内の写真と学校の写真を見て、どちらが魅力的かと問えば、それはもちろんサイボウズです。しっかりと情報収集し、自分の未来を主体的・対話的に深く考えることのできる学生は、ブラックとされる教育現場は選びません。

 

 日本の未来は学校の先生にかかっている。

 

 友人に、最後にそんな言葉をかけられました。言い換えれば、学校の先生の未来にかかっている。

 学校の未来にも、サイボウズでいうところの「公明正大」と「自立」が求められます。法定労働時間以内には絶対に終わらない量の仕事を抱えているのに、嘘をついて、終わりますという体で現状をそのままにして先送りしないこと。現場でできることがたくさんあるのに、文部科学省のせいにしないこと。

 泡を吹いている教員は見たことがありませんが、保護者のクレームで過呼吸となり、救急車で運ばれた先生なら2回ほど見たことがあります。そんなブラックな教育現場を多様性のあるカラフルなものにしていくためにも、外の世界を見習いたいなと思った夜でした。

 

 簡単そうで、難しい。

 

 

 

即位礼正殿の儀に参列するのも、楽しく学び合える場を創るのも、同じ。

 私は、大学に入った頃、一方的な講義を聞くだけの大教室にげんなりしながら他方で、少人数ゼミや学外の大人のフリースクールなど、「学びたい人が自然に集まって学び合う」場に魅かれ、触発された。さらに登山や世界への一人旅の体験のなかで身をもって学んだ。就職した広告会社博報堂では大阪の営業所で社会勉強し、思い立って休職・私費留学したカリフォルニアで、「ワークショップ」や「ファシリテーション」という参加型のスタイルに出会った。確かに、聞いたことよりも、自分で体験し発見し獲得するなかで、学び、成長させてもらった。
(中野民夫『学び合う場のつくり方 本当の学びへのファシリテーション岩波書店、2017)

 

 以前、中野民夫さんと会議でご一緒する機会がありました。打ち上げの場(横浜中華街)で、ご本人から「もしよかったら」と手渡されたのが、ディスカウント価格 & メッセージ入りの『学び合う場のつくり方』です。

 

f:id:CountryTeacher:20191022195213j:plain

中野民夫さんがその場で書いてくれました🎵(17)

 

 中野民夫さんは、日本におけるワークショップの第一人者として知られています。ワークショップという言葉は、ファシリテーターファシリテーションなどとともに、今ではもうすっかり人口に膾炙していますが、言葉が認識を生み、認識が行動を生み、行動が変化を生むということを考えると、中野民夫さんが『ワークショップ』や『ファシリテーション革命』などの本を通して世の中に与えた影響は計り知れません。学校現場における「アクティブラーニング」や「主体的・対話的で深い学び」も、ワークショップの普及の延長線上にあるといっても過言ではないと思います。

 

 教えるより、楽しく学び合える場を創ろう。

 

 大賛成です。しかしここ数年、学校に限らず、ワークショップの粗製濫造とでもいうような状況が生まれ、これは本当にワークショップの名に値するのか(?)と疑問に思うことが多くなってきました。

 

 疑問に思ったら、学び直しです。

 

 即位礼正殿の儀が執り行われ、祝日となった昨日。

 

 某NPO団体の主催する「よいワークショップってなんだろう?」という会に参加し、ワークショップの定義や歴史などを改めて学んできました。

 

f:id:CountryTeacher:20191022204045j:plain

参加者12名、教員は私ひとり。

 

 ① 会議の場がワークショップ化している。
 ② イベントがワークショップ化している。

 

 ワークショップの現状として、最初にそんな話がありました。さらに、現状のマイナス面として、①については「意見はあるが意志はない」という状況があり、②については「主催者の意図が見えなくなり、楽しそうだからOK」のような状況が生まれているとのこと。なるほどなぁと思います。

 学校の授業にもそういった傾向があります。主体的・対話的で深い学びの視点から「子どもたちが生き生きと話していて、楽しそうでよかった」みたいな。「課題は、深い学びですね」みたいな。

 

「誰でも言えるだろ、それ」みたいな。

 

f:id:CountryTeacher:20191022210013j:plain

ライブレコーディング

 
 ワークショップの可能性について、あなたの意見は?
 ワークショップの課題について、あなたの意見は?

 

 ワークショップの歴史や定義などについてレクチャー形式で学んだ後に、4人グループでワークショップの可能性と課題について話し合いました。レクチャーや話し合いの中で刺さった言葉を書き出すと、以下の通りです。

 

  • ワークショップについて考える前に、前提の確認。いわゆる「ガチガチの会議」や「ガチガチの講演会」を何とかしようという、「ガチガチ」に対するアンチテーゼとしてワークショップにスポットライトが当たった。90年代にはそういうコントラストが明確だった。だから「ガチガチ」をほぐすという意味で、ワークショップには可能性があるといえる。
  • ワークショップと体験学習は区別した方がいい。例えば「稲刈り」を体験するだけだったら、それはワークショップではない。
  • ワークショップをするときに「安心で安全な」という言葉を使うことがあるが、日本のそれと欧米のそれは全く違う。日本は「批判は駄目」、欧米は「批判も含めて受容」という意味で「安心で安全な」と言っている。
  • ワークショップの課題としては、形式化の先にある目的化などが考えられる。
  • ワークショップに限らず、場に対しては、常にその場を苦手とする人がいるということを忘れてはいけない。
  • これもワークショップに限らないが、嘘のない場をつくることが大切。「何か違うな」と思っている人がそのことをしっかりと口にしない限り、その場はよくならないし、変な方向に行ってしまう。

 

 テーマはワークショップでしたが、授業づくりや学級づくりに応用できる話が多く、とても勉強になりました。中野民夫さんが書いているように「学びたい人が自然に集まって学び合う」場は、おもしろい。

 

 学びたい人は、自然に集まり、学び合う。

 

 教員って、本来そういう人の集まりのはずですよね。放っておいても自然に、或いは勝手に学ぶ人。だから働き方改革を進めるのであれば、げんなりするような研究や研修はゼロにして、放っておいてほしい、と思います。学ぶ場所も、学ぶ手段も、かつてないくらいにたくさんありますから。天皇陛下が好きな人は、自然と即位礼正殿の儀に参列するし、学ぶことが好きな人は、自然と楽しく学び合える場を創ります。

 

 本当の働き方改革へのファシリテーション
 

 革命を🎵

 

 

学び合う場のつくり方――本当の学びへのファシリテーション

学び合う場のつくり方――本当の学びへのファシリテーション

 
ワークショップ―新しい学びと創造の場 (岩波新書)

ワークショップ―新しい学びと創造の場 (岩波新書)

 
ファシリテーション革命 (岩波アクティブ新書)

ファシリテーション革命 (岩波アクティブ新書)

 

 

 

原発をやめられない社会を、宿題をやめられない学校を、どうするか。

 閉塞感を感じたら、とりあえず移動してみる。旅をしてみる。
 これは、私たちが生きていくうえでも有効だと思います。
 どこかに行けば、今抱えている問題が解決するとは思わないけれど、自分が何にとらわれていたのかに気づくことはできる。
 人間にとってすべてボーダレスがいいかっていったら、最初から「壁」が何もない場所だと、案外、何も考えられない気がします。そこに「壁」っていうものがあることからこそ「壁を越えなければいけない」という概念も生まれてくるし、そこに「壁」なんてないように見えても、それは単に自分が井の中の蛙だからかもしれない。
ヤマザキマリ『国境のない生き方  私をつくった本と旅』小学館新書、2015)

 

 漫画家で旅人で読書家のヤマザキマリさんの本を読みました。国境という言葉と、副題の「私をつくった本と旅」に惹かれ、昨日の帰りにフラッと立ち寄った書店で手に取った本です。

 

 当たりだ~🎵

 

 映画『テルマエ・ロマエ』を観ていたのにもかかわらず、プログラムも買って読んでいたのにもかかわらず、「Ⅰ」も「Ⅱ」もそうやって楽しんでいたのにもかかわらず、ヤマザキマリさんの「本」にはまだ出会っていませんでした。上記に引用した本の中で、ヤマザキマリさんは三島由紀夫の本との出会いを「今度こそ出会うべくして出会うタイミングだったのでしょう」と書いていますが、スケール感は異なれど、気分としては、まさにそんな感じです。

 

f:id:CountryTeacher:20191021231225j:plain

国境の町カーカルビッタ、ネパールにて(00)

 

f:id:CountryTeacher:20191021231324j:plain

こっちはネパール、あっちはインド

 

 インドの東北部にある紅茶の町ダージリンからジープに乗り(定員6人なのに、12人乗車!)、シリグリーという交通の要衝みたいなところを経由した後に陸路でネパールに入ったときの写真です。

 国境の町に特有の、こういった「混ざる感じ」っていいなぁと思います。ボーダーはあるけれど、否、ボーダーがあるからこそ、混ざる。ヤマザキマリさんの言葉を借りれば、壁があるからこそ考える。閉鎖的と揶揄されることの多い「学校」や「教室」にも、この「混ざる感じ」を取り入れたいところです。

 ちなみにインドのイミグレーションを出た後には大きな橋があって、その橋を徒歩で渡るとネパールのイミグレーションにたどり着きます。橋の上はインドでもなくネパールでもない、島国に生きる日本人にとってはちょっとワクワクする空間。ちょうど今日は天皇即位の礼がありますが、退位から即位までの、まぁ、基本的には「ない」とされる空位みないなものだなぁと思います。新しい国に入る直前はワクワクするように、新しい時代入る直前も、ワクワクしますから。

  

f:id:CountryTeacher:20191021235246j:plain

国境の町デーンサワン、ラオスにて(01)

 

f:id:CountryTeacher:20191021235404j:plain

デーンサワンの小学校、山の向こうはベトナム

 

f:id:CountryTeacher:20191021235600j:plain

デーンサワンの小学生

 

 こんなところにも小学校があって、 こんなところにも小学生がいる。授業の見学は断わられてしまいましたが、授業がはじまるまでの短い時間にたくさんの元気をもらうことができました。ラオスの子、ちょっと日本人に似ています。

 小学校のことを教えてくれたのは、ゲストハウスの女将さん(?)で、私と同い年のママでした。国境の、こんな山奥で、同い年の女性がこういう人生を送っているっていうのを知ることも、ヤマザキマリさんいうところの「自分が何にとらわれていたのかに気づく」ためには、必要だなと思います。

 

f:id:CountryTeacher:20191021235957j:plain

デーンサワンの宿の女将さん(同い年!)と息子さん

 

 田舎やら都会やら、県をまたいで「先生」になると、指導案に判子を押す学校とそうでない学校があることや、通知表に校長印を押す学校とそうでない学校があること、学芸会や展覧会などの行事が目白押しの学校とそうでない学校があることなど、違いに目がいく経験を多くします。自分が何にとらわれていたのかに気づく経験ともいえます。

 

 制度ではなく、慣習の違い。

 

 

 ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』を引きつつ、前回のブログでも書きましたが、制度(法)ではないのだから、単なる慣習なのだから、過労死レベルで働いているのだから、やめましょうよ、いろいろなこと。やめてもいい慣習(悪い習慣)が、教育現場には五万とあります。問題は「やめましょう」と提案しても、なかなかやめられないこと。

 

 今さらやめられない。
 空気にあらがえない。

 

 負けることが自明だった日米開戦をなぜやめられなかったのか。或いは、原発をやめられない社会をどうするか、みたいな話です。社会学者の宮台真司さんが、昔よくそう言っていました。

 通知表の所見くらい、せめて年1回にしましょうよ。次年度から始まる新しい学習指導要領を見据え、新旧が「混ざる感じ」のするこのタイミングで。ワクワクをつくりましょうよ、校長先生&副校長先生。麹町中学校の工藤勇一校長先生を例に出すまでもなく、宿題をやめただけでも「ヒーロー」ですよ、今の時代。「一」番大切なのは「勇」気ってこと。

 

 どのように提案するか。
 どのように壁を越えるか。

 

 壁の前で空を見上げる毎日です。

 

 

 

給特法の改正を求めたことが、変形労働時間制の導入に繋がったって?

「そして、イギリスに連れ帰ってくれる船長に言われるんだ。『ちょっと一つ気になるんだが、どうしておまえは、そんなに大声で喋るんだ?』と」
「大声で? どういうことですか」
ガリヴァーは、巨人と一緒にしばらく暮らしていたから、喋る時はいつも、でかい声を出さないといけなかったんだ。塔の上の男に、道路から呼びかけるような、そんな大声を出さないと巨人には聞いてもらえなかったらしいからな」
「だから、帰ってきても、声が大きかったんですか。それは可笑しいな」
伊坂幸太郎『仙台ぐらし』集英社、2015)

 

 小人の国に行けば巨人のように扱われ、巨人の国に行けばペットのように扱われる。ガリヴァー自身はほとんど何も変わらないのに、周りの国が変わるだけで、巨人になったりペットになったりする。スウィフトの古典『ガリヴァー旅行記』のおもしろさは、そういったところにあるような気がします。

 むかし、次女にせがまれて枕元で読み聞かせをしたときに、そんなことを考え、「パパは今、こう思ったんだけど」と話したことを覚えています。読み聞かせスキルでいうところの「考え聞かせ」ってやつです。残念ながら、次女には「?」というリアクションをされてしまいましたが。

 

 人間は、置かれた環境によって、変わる。

 

f:id:CountryTeacher:20191020163129j:plain

Pilgrimage Village/ベトナムのフエにて(07)

 

 ベトナムの古都フエにある「Pilgrimage Village」という素敵なホテルで働いていた友人のもとを尋ね、歓迎を受けた12年前の夏。バンコクのカオサンロードや香港の重慶大厦(チョンキンマンション)、カルカッタのサダルストリートなどにある、バックパッカー御用達(?)の安宿にしか泊まったことのなかった身としては、はじめて足を踏み入れる「星」のつく世界に、ちょっと興奮。友人による友人のための友人の価格(特別ディスカウント)に感謝。

 

 持つべきものは友です。

 

f:id:CountryTeacher:20191020164251j:plain

ピルグリメッジ ビレッジにて。フエぐらし(07)

 

 安宿に泊まっていると、自然と『書を捨てよ  町へ出よう』みたいな気分になるのですが、ホテルがあまりにも快適すぎると、なかなかそういった気分になれません。人間はたしかに、置かれた環境によって変わります。日がな一日、泳ぎ、そして本を読む、束の間のフエぐらし。写真を見ていたら、そのときに読んでいた本が「顕示的消費」という言葉で知られるソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』で、あっ、なんかあのシチューエーションにぴったりだな、と。

 

f:id:CountryTeacher:20191020173104j:plain

『有閑階級の理論』を机に置いて、いただきます🎵

 

 せっかくなので『有閑階級の理論』から知恵を借ります。ちなみに副題は「制度の進化に関する経済的研究」です。以下、訳者である高哲男さんの解説より。

 

 だが、「決まり」も「規則」も「しくみ」もすべて人間によって決められ、かなり長期にわたって習慣的に維持されてきたものに過ぎない。朝令暮改されるものは、ふつう「制度」とは呼ばれないから、突き詰めて考えると、制度とは、結局生活している人々が慣習として受け入れている行動規範であり、「考え方」に根ざすものであることが分かろう。
(ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』高哲男 訳、ちくま学芸文庫、1998)

 

 Twitter等に「給特法の改正を求めたことが、変形労働時間制の導入につながってしまった」、「現行給特法の厳密・適切な運用を求めるべきだった」という意見が出ています。正しいような気もするし、結果論のようにも聞こえます。

 

 法としての制度。
 思考習慣としての制度。

 

 制度には上記の2つの側面があって、ヴェブレンは後者の「思考習慣としての制度」に注目し、『有閑階級の理論』を書いています。そこにあるのは「人間はいかなる理由で、どのように行動するのか」という視点。高哲男さんは、その視点ゆえ、ヴェブレンはデューイ流のプラグマティズムを共有していると解説します。

 

 そのことに倣えば。

 

 わたしたち教員も「法としての制度」ではなく「思考習慣としての制度」に注目して働き方改革を進めた方がいい。つまり、掲示物は貼らないとか、通知表の所見は1年に1回にするとか、夏休みのプール指導はやらないとか。「子どものため」という考え方を改め、まずはそういった現場の慣習をひとつひとつをなくしていった方がいい。だから鍵となるのは、やっぱり校長と教育委員会かな(もちろん、教員一人ひとりも)。

 

 人間は、置かれた環境によって、変わる。
 変わってしまうんですよね、偉くなると。

 

 そこが問題だ。 

  

 

仙台ぐらし (集英社文庫)

仙台ぐらし (集英社文庫)

 
ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

 
書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 
有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫)

有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫)

 

変形労働時間制ではなく、ゼロベースの富「学校」論を!

 すでに述べてきたが、金次郎の方法は五公五民とか四公六民など領主が決めた税率ではなく、直近十年の平均納税実績を年貢の上限として設定する。
 そのうえで領主や個別の農民(経営者)の生産高と借金を調べ、金次郎ファンドからの融資で高利の借金を低利で借換えさせ、冥加金を推譲させる。用水や堰や道路や公共事業に投資し、生産環境を整え、一人当たりの生産高を増やし利益率を上げさせる。ヤル気を起こさせるために入れ札でリーダーを選び、積極的に表彰して自己責任と共同責任の自覚を促し、貸付の利息や推譲により増えたファンドはつぎのプロジェクトの原資とする。これを繰り返せば、隣の村、隣の藩も豊かになる。ひいては天下が豊かになる……。

猪瀬直樹『ゼロ成長の富国論』文藝春秋、2005)

 

 あの銅像の示すものは、努力というより、効率である。猪瀬直樹さんの書いた『ゼロ成長の富国論』の中に、そんな一文が出てきます。あの銅像とは、子どもたち曰く「薪を背負って本を読んでいる人」=「二宮金次郎」のこと。私の母校にも、次女の通う小学校にも、初任校にも次の学校にも、そのまた次の……、そして現任校にも、少年金次郎の像が立っています。

 

f:id:CountryTeacher:20191020124535j:plain

前々任校の二宮金次郎(12)

 

 昼の仕事をすまして、
 家へ帰ると、
 夜おそくまで起きてわらじをつくりました。
 のちにえらい人になりました

 

 昔の教科書に載っていた、類型としての金次郎の物語。のちにえらい人になりました。さて、どんな人になったのでしょうか。猪瀬直樹さんは、金次郎を「人口減少社会でどう豊かに暮らしていくのか」という大きな課題を見据えながら、荒れた学校の、否、荒れた村の復興に挑戦し、成し遂げた「えらい人」として描きます。

 そのための方法論は最初の引用にある通り。ざっくりいうと現状の見える化ボトムアップでの「できることの明確化」、及び労働環境の整備と権限委譲による労働者一人ひとりの「ヤル気」アップです。

 

f:id:CountryTeacher:20191020111042j:plain

台湾の台中にて。笑う門には福来たる(99)


 のちに、二宮金次郎は優れた方法論とリーダーシップによって、小田原藩から再建を依頼された荒地「桜町領/東沼村、横田村、物井村」を復興させ、村人の笑顔を取り戻します。笑う門には福来たる。徹底した合理主義者であり、ずっと先を見据えて、効率よく努力を継続した人。金次郎のその後の活躍を追うと、そんな姿が浮かんできます。

 

 文部科学省がやるべきことって、そういうこと。
 教育委員会がやるべきことって、そういうこと。
 校長副校長がやるべきことって、そういうこと。
 

 すぐれた学級担任は、そうやってクラスを経営しています。

 

 現状の見える化はすぐにできます。現場の先生たちが、全ての仕事とそれにかかる時間をリストアップすればいい。そうすれば、法定労働時間とセットで、ボトムアップでの「できることの明確化」もできます。おそらくは授業と授業の事前事後にかける時間だけで法定労働時間を超えるでしょう。二宮金次郎だったらその結果を見て、合理的に業務をカットするはずです。バッサリと。だってそうしなければ労働環境を整備することはできませんから。

 

 ゼロ成長の富国論に基づく、
 ゼロベースの富「学校」論。

 

 イリーガルな労働環境を変形労働時間制の導入によって隠すのではなく、ゼロベースの富「学校」論によってリーガルな働きやすい労働環境をつくっていくこと。そうすれば優秀な人材が学校現場に集まるようになり、権限委譲もしやすくなります。教員に限らず、優秀な人間の「ヤル気」アップには、誰も望んでいないような研修ではなく、放っておくことが一番ですから。

 

「役職の特権を私ごとに利用し、世評や利欲に動く家臣が出て、政治が行き届かず、でたらめな政治のためか、村々の大小の農民の風俗は悪化し、人情は惰弱になり、農民は法を守るかたちで道理を破るようになった」

 

 再び『ゼロ成長の富国』より。二宮金次郎の生きた江戸末期の人口減少社会。似ていますよね、現在の教育現場と。変形労働時間制のでたらめさ然り、道理のかけらもない「教員いじめ」然り。尊徳よりも損得が優先され、無理が通って道理が引っ込む、令和初期の人口減少社会。

 だからこそ、二宮金次郎の手法はヒントになる。学び=真似びです。せっかくほとんどの学校に二宮金次郎銅像がたっているのだから、努力はほどほどにして「効率よく」真似すればいい。ちなみに、二宮金次郎は自身の方法論をこう呼んでいます。

 

 報徳仕法
 
 御意。 

 

 

ゼロ成長の富国論

ゼロ成長の富国論

 

 

変形労働時間制で、親は親を、子どもは子どもを生きられなくなる。

重い  とか
軽い  とかも
大切かもしれませんが

誰もが
背負うことがあるのだ

想うことが

生きる者の
根っこの  根っこです

「芽吹きのささやき」


(小西貴士、河邉貴子『心をとめて 森を歩く』フレーベル館、2016)

 

 昨年の夏、「都会教師」時代の師匠に誘われて、小西貴士さんが登壇するイベント(in 鎌倉)に参加しました。八ヶ岳南麓の清里高原を舞台に「子どもをめぐるうまく言葉にならない素敵なこと」を撮り続けている「写真家」兼「森の案内人」の小西貴士さん。写真も、言葉も、そして生き方も、『森へ』や『旅をする木』などで知られる星野道夫さん(故人)に負けないくらい格好いいおじさんです。

 ちなみに、小西さんと昔からの仲良しで、イベントの企画から運営までを華麗にプロデュースしていた師匠も、二人に負けないくらい格好いいおじさんです。応え合うおじさんたち。

 

 おっさんずラブ

 


 写真を通して、自然を通して、子どもたちとずっとかかわってきた小西さん。その日、「育ち」をテーマにした応え合いの中で、当時入院中だった娘のことを相談したところ、2冊購入した著書の見返しに次のような言葉を添えてくれました。

 

f:id:CountryTeacher:20191019175756p:plain

『心をとめて 森を歩く』

 

f:id:CountryTeacher:20191019175711p:plain

『子どもは子どもを生きています』

 

 命のことは ひとつずつ

 

 胸にこみ上げてくるものがありました。相手に応じた言葉を、それでいて汎用性のある言葉を、サッと紡いでギフトのように贈ることができる力。誰もが背負うことがあるのだ、と想い続けている人にしか授からない力なのだろうなと思います。

 
 うまくゆくもゆかぬも 抱きしめて “育ち”

 

 そんな小西さんが2000年に立ち上げた「学校」が清里にあります。四方を富士山や秩父連山、南アルプス連峰などに囲まれた「キープ自然学校(清泉寮自然学校)」です。師匠に勧められて、私も5年前に家族で行ってきました。自然体験プログラムが豊富に用意されていて、特に小学生以下のお子さんのいるご家庭にはイチオシです。

 

f:id:CountryTeacher:20191019183806j:plain

小西貴士さんの写真が飾られている、キープ自然学校(14)

 

 家族でキープ自然学校を訪れたのは2014年の12月末です。ゆるゆるキャンプと呼ばれるプログラムに参加しました。

 小学校のイベントと同じように、はじまりの会でスタートし、終わりの会でさようならとなる「ゆるゆるキャンプ」。途中、門松づくりや森へハイキング、氷のリースづくりやパパママルネッサンス交流会、キャンプファイヤー de ホットワイン🎵など、自由参加でのメニューが盛りだくさん。長女も次女もとっても楽しそうで、リピーターがたくさん生まれるだろうな~、という内容でした。娘二人がもう少し小さかったら、我が家も繰り返し足を運んでいたかもしれません。

 

f:id:CountryTeacher:20191019210022j:plain

清里高原 & 氷のリースづくり(14)

 

 誰もが背負うことがあるのだ、と想うこと。

 

 生きる者の根っこの根っこが腐っていなければ、過労死レベルで働いている人たちをさらに追い詰めるような法律の改正案が閣議決定されるなんてことはなかっただろうに、と思います。1年単位で労働時間を調整する「変形労働時間制」の導入を可能にする法律の改正案のことです。

 過労死レベルで働いているパパやママの帰りを待っている子どもがいて、睡眠不足のためにイライラしているパパやママの機嫌をうかがっている子どもがいて、パパやママは忙しそうだからと甘えることを必死に我慢している子どもがいる。日本のあちこちに、五万といる。中には病んでしまう子どももいる。

 

 パパはパパを生きられず。
 ママもママを生きられず。


 子どもは子どもを生きたいのに、そんなパパやママを見て、子どもは子どもを生きられなくなっていく。

 共働きで、パパもママも「先生」をしている家庭は、実家の助けでもない限り、程度の差こそあれそのような「生きられず」という困難にぶち当たっているはずです。

 

 繰り返します。

 

誰もが
背負うことがあるのだ

想うことが

生きる者の
根っこの 根っこです

 

 変形労働時間制の良し悪しを臨時国会で議論する前に、政治家さんや官僚さんには、心をとめて、学校を歩き、根っこの根っこを現場に下ろしてほしい。誰もが背負うことがあるのだ、と、気づきますから、きっと。

 

 心をとめて。
 ひとつずつ。

 

 

心をとめて 森を歩く

心をとめて 森を歩く

 
子どもは子どもを生きています

子どもは子どもを生きています

 

 

 

音楽は自由にする。変形労働時間制は不自由にする。

 若いころはいろいろうまくいかなかったけれど、年を取ったからこそ、また二人と一緒に音楽ができるようになった、ということかも知れない。だとしたら、年を取ってよかったと思います。ポール・ニザンじゃないですが、若さなんて、全然いいものじゃないんですよ。声を大にして言いたい。
坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社、2009)

 

 酔っぱらっています。さっきまで教育実習のときに苦楽を共にした友人と酒を酌み交わしていました。20年ぶりの再会。久闊を叙するってやつです。

 当時はロン毛にピアスで、5年生の理科の単元『流れる水のはたらき』でいうところの「上流」のような勢いにあふれていた彼も、今では「中流」の流れのようにすっかり落ち着いて、小学校の副校長に。昔話に花を咲かせつつ、これからは「下流」に向けてどういうふうに幅を広げていくのか。話のネタの尽きない夜になりました。

 

 僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。

 

 ポール・ニザンの『アデン、アラビア』より。あまりにも有名な冒頭の一節。ポール・ニザンじゃないですが、中流には中流の、下流には下流の美しさを重ねていきたいものです。

 

f:id:CountryTeacher:20191018214535j:plain

バグマティ川の川岸、パシュパティナートの火葬場にて(00)

 

f:id:CountryTeacher:20191018214749j:plain

パシュパティナートはネパール最大のヒンドゥー教寺院

 

 死はそこにある。

 

 ネパールはカトマンズにあるパシュパティナートの火葬場にて、隣にいたヒンドゥー教徒の老人から「メメント・モリ」的なメッセージを受け取ってから早20年。下流に向けて、或いは「死」に向けて、これからどういうふうに幅を広げていけばよいのか。

 20年ぶりに再会した友人とそんなことを語り合っていたときに飛び込んできたのが「1年単位で労働時間を調整する変形労働時間制の導入を可能にする法律の改正案が、閣議決定されました」というニュースです。やれやれ。酔いが覚めます。

 

 人生はどんどん伸びていて、社会はどんどん変化しているのに。

 

「大人の学びを科学する」をテーマに、人材開発や組織開発を研究している中原淳さんに「長時間労働から長期間労働へ」という言葉があります。

 

 

 医学による予想では、現在の小学生の寿命は105歳前後。だから、先行き不透明な社会保障のことなども含め、仕事人生の長期化は避けられそうにありません。そういったことを踏まえた上で、中原さんはこれからの働き方のことを「長時間労働から長期間労働へ」と表現します。

 

 ① 長時間労働から長期間労働へ。
 ② 長時間労働も、長期間労働も。

 

 変形労働時間制の導入は、中原さんのいう①の流れを、②の流れに変えてしまう「毒饅頭」みたいなもの。主語が異なるだけで、実態は、神戸でいうところの「教員いじめ」と何ら変わりません。根底にあるのは、権力をもった側の想像力の欠如です。

 年齢を重ね、我が子も大きくなり、これからは下流に向けて幅を広げていきたいと思ったとしても、長時間労働+長期間労働では、しっかりと眠ることも、まともに本を読むこともままならず、

 

 自分を大切にできない。

 

 教員の「自分を大切にできない」という在り方は、自覚の有無にかかわらず、じわじわと教室に反映され、子どもたちの自己肯定感を奪っていきます。そういった「問題を生み出す構造」の放置が、ストレスフルな職場を生み、神戸の「教員いじめ」ような事件や、教室での「いじめ」を誘発しています。学校教育は、すべての子どもたちに自由の相互承認の感度を育むことを土台に、この社会で自由に生きられる力を育むためのものなのに(By 苫野一徳さん)。大人にも子どもにも、自由の「自」の字もない現状。坂本龍一じゃないですが、

 

 音楽はわたしたちを自由にする。
 変形労働時間制は不自由にする。

 

 声を大にして言いたい。

 

 

音楽は自由にする

音楽は自由にする

 
アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)

アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)

 

 

神戸の「教員いじめ」の謝罪文はヤバイ。ヤバイにかけて、別の話。

 男の子が母親と話さなくなるのは、自分の世界を母親に理解させるのが面倒だからだ、という話をしました。しかしもうひとつ、人類の根本的な、そして無意識的な習性として、「ヒトは第二次性徴を迎えたら、異性の親とは本能的に離れていく傾向がある」ことに注目すべきです。
 現在生存する人類は、異性の親と相容れないことで生き残ってきたといっても過言ではありません。
(柳沢幸雄『母親が知らないとヤバイ「男の子」の育て方』秀和システム、2017)

 

「東男に京女」という諺があります。あずまおとこにきょうおんな。粋でたくましい江戸の男と、しとやかで女らしい京都の女は相性がよいという意味です。これに類する諺は他にもあって、例えば「伊勢男に筑紫女」や「越後女に上州男」なども知られています。

 

 東男と京女は相性がよい。

 

 これらの諺には科学的な根拠がある。そう話すのは工学博士の柳沢幸雄さんです。以前、柳沢さんの『「こどもと空気」の授業』という講演会に参加したときにその話を聞きました。開成中学・高等学校の校長先生であり、シックハウス症候群化学物質過敏症研究の第一人者でもある柳沢さん。ハーバード大学でベストティーチャーに選ばれるほどの「ヤバイ」大人です。

 

【〇✕問題】
 パパッ子だった娘が思春期になって、「パパ臭い!」と近寄らない(涙)。育て方を間違えた?

 

 講演会の案内状に掲載されていた問題より。答えは「✕」ですが、思春期の娘二人をもつ身としては、「明日は我が身」感を拭えません。なぜ、パパに近寄らないなどという挙措が、どの家庭でも起こり得る不都合な真実として市民権を得ているのか。

 

 なぜなら、父と娘とでは、白血球の型が似ているから。

 

 柳沢さん曰く「血液型と同じように、白血球にもいろいろな型があって、その型が異なれば異なるほど、異性は互いのにおいをよいものとして感じとり、似ていれば似ているほどいやなにおいとして感じとってしまう」云々。だから思春期を迎えた女の子は父親のにおいに過敏に反応するし、地理的に遠い(すなわち白血球の型が似ていないであろう)東男と京女は惹かれ合うとのことでした。統計的な、ひとつの傾向として。なるほど。

 

 だから人は旅をするのかもしれない。
 地理的に遠い所にいる異性を求めて。

 

 柳沢先生の話を聞きながら、そんなことを考えました。

 

 

f:id:CountryTeacher:20191016214236j:plain

カンボジアにて(01)

 軽トラックの荷台に乗って、国境の町ポイペトから観光の町シェムリアップへと向かう途中。砂と、風と、空を浴びながら。

 

 

f:id:CountryTeacher:20191017215132j:plain

ベトナムにて(04)

 夜、ハノイの駅にて。ダナンに向かう夜行列車を、ひとり、待つ。こういう時間がたまらなく好きでした。

 

 もうすぐパパになるのかぁ。

 

 写真を眺めていたら、そんなふうに感傷に浸っていたハノイの夜が、ついこの間のことのように思えてきました。ハノイの夜からもう15年が経ちます。気が付いたら長女も次女も思春期のまっただ中に。育て方を間違えたとは思っていませんが(もっと時間を共有したかったとは思っていますが)、おそらくは二人とも白血球の型がわたしとそっくりなのでしょう。最近は、思春期がそうさせているのだろう、と思わなくてはやっていられない言動に凹むことがしばしばあります。

 

 パパ、次はいつ夜ご飯いらないの?

 

 凹みます。ママと長女と次女の女三人で夜ご飯を食べたいようです。パパ不要。柳沢さんの講演会と同じ時期に参加した、社会学者の宮台真司さんが主催する「男親の社会学」という連続講座で、宮台さんが「思春期前に関係がよくても悪くても、精神医学の結論としては、思春期に我が子からどう思われるかはわからない」と話していたことを思い出します。

 

 父親が知らないとヤバイ「女の子」の育て方。

 

 そんな本があったとしても、もう遅いなぁ。黒川伊保子さんの『妻のトリセツ』も、読み終わったときの「手遅れ感」といったらそれはもう「😭」だったし。やれやれ。神戸の「教員いじめ」の謝罪文のレベルではないけれど、いろいろと、

 

 ヤバイなぁ。

 

 

母親が知らないとヤバイ「男の子」の育て方

母親が知らないとヤバイ「男の子」の育て方

 
妻のトリセツ (講談社+α新書)

妻のトリセツ (講談社+α新書)

 

 

 

神戸の女帝(教師いじめ)の話よりも、世の中に伝えたい夏みかんの話

 だから《平林》なんてのは、もう即国語の勉強になる。ひとつ字でも、いろんな読み方が、音訓の読みわけもあるし、そうじゃないのもありますんでね。面白い。そして、読み方を間違えてもがっかりすることはないんです。総理大臣になれる可能性は残されているんですから。
三遊亭圓窓『日本人が忘れちゃいけないこの落語』ベスト新書、2009)

 

 落語に《平林》という噺があります。ストーリーは、小学生に人気の《寿限無》と同様、名前をめぐるもので、手紙を預かったものの宛名の読み方を忘れてしまった小僧が「あなたはタイラバヤシかヒラリンか? それともヘイリン、ベイリンか?」と泣きながら平林さんを捜すというもの。

 

「あたしはひらばやしだ!」

 

 捜し当てた挙句、「ひらばやし? ああまた一つ増えちゃった」となるのが、落語家である三遊亭圓窓さんの考えたオチです。

 

 ひとつの字でも、音訓の読み分けがあるのはなぜか。
 握ると摑むなど、似た意味の言葉があるのはなぜか。

 

 国語の授業(小単元『にた意味の言葉』)で類義語を学習するに当たって、上記の問いを4年生の子どもたちに投げかけたところ、「複雑な方がおもしろいから」や「想像力がつくから」、「考える力がつくから」など、感度のよい答えが返ってきました。音訓の読み分けがあったり、類義語があったり、あべこべことばがあったり、そういったある意味「コミュニケーションをわざとややこしくする言葉」の存在理由について、作家の内田樹さんは次のように述べています。

 

 わたしたちは「あべこべことば」を適切に聞き分けることで、ほとんど出来上がった半製品に最後の包丁を入れて、「カオス(混沌)」から「コスモス(秩序)」が立ち上がる瞬間に立ち会う。両価的・対立的な語義のあわいにことばが揺れ動いているのは、そのあいまいさの霧が晴れて、表象が送り手と受け手のあいだで、二分割されて共有されるその瞬間の感動をおそらくは甦らせるためなのだ。ことばが成立した瞬間の原初の感動を経験し、その出来事を再演することがわたしたちをコミュニケーションに誘う根源的な動機づけであるとしたら、たしかにコミュニケーションは過度に一義的でクリアカットなものであるべきではない。
内田樹『死と身体 コミュニケーションの磁場』医学書院、2004)

 

 カオスからコスモスではなく「オチ」が立ち上がる落語にも、ある種の「瞬間の感動」を甦らせる力があるような気がします。2009年の秋、学年の先生たちと一緒に三遊亭圓窓さんのステージを生で体験したときに、そう思いました。あれからもう10年も経つのか~。

「同じ感動を、感度のよいあの子たちにも!」と思って、その年に実現したのが、下の写真にある、圓窓さんを招いて行った落語の授業です。学年主任のK先生(♀)が引き寄せてくれた「圓」、ならぬ「縁」。楽しかったな~。

 

 

f:id:CountryTeacher:20191015195912j:plain

図書室につくった高座(09)

 

 図書室につくった高座の上で、お気に入りの落語を披露した子どもたちの生き生きとした表情といったらそれはもう、10年前のことですが、今でもはっきりと覚えています。還暦以降のライフワークを落語の授業に当てているという、三遊亭圓窓さんの指導も、素晴らしかった!

 

 今年の5月、そのK先生から贈物が届きました。

 

 夏みかんです。

 

f:id:CountryTeacher:20191015212237j:plain

K先生から贈られてきた、夏みかん(19)

 

 ちょうど国語の授業で、夏みかんの登場する『白いぼうし』を扱っていたタイミングでの贈り物です。教員採用試験を受け直し、またまたまた自治体を変わった「変わり者の私」を気遣ってのサプライズ。学校宛に送られてきた「箱」を、「あっ、K先生からだ、何だろう」って教室で開けたら夏みかんが出てきて、もう、泣きそうになりました。手紙に「間に合いましたか?」って、ドンピシャですよ~、嬉しすぎます。瞬間の感動😭

 

「女帝」がどうのこうの。

 

 神戸の小学校の「教師いじめ」の続報が続いています。教員のイメージがどんどん悪くなっていって、本当に残念です。

 田舎と都会を行ったり来たりしている「田舎教師ときどき都会教師」の私ですが、その後「校長先生」になったK先生をはじめ、ほんと~に、よい出会いに恵まれ続けてきました。だからこそ、教師いじめを牽引していたという「女帝」のことよりも、各都道府県で活躍している「素敵な先生」たちのことを、もっともっと世の中の人たちに知ってほしい。そう思います。魅力的な先生が、たくさんいますから。

 

 教室には、まだかすかに、夏みかんのにおいが残っています。

 

 そんなわけない。

 

 

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

 
車のいろは空のいろ 白いぼうし (新装版 車のいろは空のいろ)

車のいろは空のいろ 白いぼうし (新装版 車のいろは空のいろ)

 

 

 

映画『JOKER』と「路上生活者の避難所受け入れ拒否問題/台東区」について

 だが、本当に、本当に、大事なことは、たとえば平日の昼間に、どうしても観たい芝居やライブがあれば、職場に申し出て、いつでも気軽に休みが取れるようにすることだ。職場の誰もが、「あいつサボっている」などと感じずに、「なんだ、そんなことか、早く言ってくれよ。その仕事なら俺がやっておくよ。舞台を楽しんできな」と言い合える職場を作ることだ。
 それが、私の考えるコミュニケーションデザインであり、コミュニティデザインだ。そのためのコミュニケーション教育だ。
 競争と排除の論理から抜け出し、寛容と包摂の社会へ。
平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』講談社現代新書、2016)

 

 昨夜(平日の昼間はまだ難しい😰)、話題の映画『JOKER』(トッド・フィリップス監督)を観てきました。R15指定だけあって、目を背けたくなるような凄惨なシーンがいくつもあり、「ダークナイト」な気分で映画館をあとにしましたが、ヴェネチア国際映画祭で最高位の金獅子賞を受賞した作品だけあって、批評性にはめちゃくちゃ富んだ映画だなぁと思いました。まだ観ていなかったら、ぜひ。とはいえ、家族や恋人と観に行くようなものではありません。

 

 あぁ、気持ち悪かった。

 

Joker (Original Soundtrack)

Joker (Original Soundtrack)

 

 

 映画『JOKER』の舞台は70年代のニューヨーク。殺伐とした犯罪都市を舞台に、不幸な生い立ちをもつ主人公のアーサーが、社会からの「排除」と、正当防衛(?)の延長にあった「殺人」をきっかけに、善人から悪人へと墜ち、社会に敵対する脱社会的存在として、とんでもない事件を起こす、というのがあらすじです。

 

 映画を観ながら連想したことが2つ。

 

 1つ目は、タイトルである「JOKER」のニュアンスが、にしむらひろゆきさん(匿名掲示2ちゃんねるの開設者)の提唱している「無敵の人」とかぶるなぁ、と思ったこと。

 

 生い立ちに恵まれず、
 社会に居場所もなく、
 守るべきものもない、無敵の人。

 

 無敵の人=ジョーカー。人は、いつ、どんなことをきっかけにして、ジョーカーになるのか。映画『JOKER』は、無敵の人の誕生譚ともいえます。

 

 2つ目は、東京都の台東区がしでかした「(台風19号の接近にともなう)路上生活者の避難所受け入れ拒否問題」のこと。平田オリザさんのいう「寛容と包摂」の論理ではなく、「競争と排除」の論理を前面に押し出した、受け入れ拒否という決定。

 

 あり得ない。

 

 案の定、SNSですぐに拡散され、人権侵害として炎上していました。あの日、嵐の中に放り出された路上生活者の中から「ジョーカー」が生まれたとしても不思議ではありません。

 

 日本語を話せない外国の児童。
 虐待を受けている児童。
 障碍をもつ児童。

 

 小学校や中学校が、そういった児童の受け入れを拒否したら、炎上どころの騒ぎではすまされません。それくらいあり得ないことを台東区はしでかしてしまっています。もしかしたら教員と同じように過労死レベルで働いていて判断力が鈍っていたのかもしれませんが、それにしても、ひどい話です。

 

 大切なのは想像力。

 

 映画『JOKER』は、受け入れ拒否の決定に関与した人たちにこそ、或いは小学校のクラスづくりなども含め、大なり小なりコミュニティーづくりに関わっている人たちにこそ、(R15指定で気持ち悪いけど)お勧めの映画なのかもしれません。

 

 あっ、似た話を思い出しました。

 

 昔、繁華街にあるセブンイレブンでアルバイトをしていたときのこと。賞味期限の切れた菓子パンをお店の裏手にあるゴミ捨て場に持っていったところ、路上生活者に「兄ちゃん、それくれないかな」と言われたことがあります。続けて「俺、3日間何も食ってないんだよ」云々。

 寛容と包摂をとるか、競争と排除をとるか。その分け方自体が違うかもしれませんが、道徳の授業で取り上げ、子どもたちと一緒に考えたこともあります。

 

 みなさんだったら、どうしますか?

 

 最後に、社会学者の宮台真司さんが『JOKER』のプログラムに寄稿した文章を引きます。《かつて天使だったアーサーは堕天使化したが、社会をまともに生きられない天使族が墜ちずにいられるか否かを決めるものは何か。もはや多言を要すまい》。さすが宮台さんだ🎵

 

 何かわかりますか?

 

 正解は映画館で!

 

 

 

大川小訴訟と台風19号から考える、わたしたちの責任

 自然環境の変化は本来、なかなかわかりにくい問題ですが、近年はそれが実感できるほど明らかな変化が見られます。たとえば近年は、降雨、台風など、様々な気象現象が明らかに激烈化しています。~中略~。
 首都圏では死者1000人強、罹災者40万人強を出した1947年のカスリーン台風以来、幸い大規模な水害は発生していません。しかし今後、カスリーン台風以上の巨大台風が首都圏を直撃する可能性は十分にあるのです。その際、いままでの治水対策で本当に間に合うのか、かなり疑問と言わざるを得ません。
畑村洋太郎『技術大国幻想の終わり』講談社現代新書、2015)

 

 台風19号の被害に遭われた方にお見舞い申し上げると共に、亡くなられた方のご冥福をお祈りします。

 各地の被災状況を見る限り、家や車はもちろんのこと、スマホが水没してしまって連絡がとれない(!)という罹災者も多いのではないでしょうか。

 

 東北の震災のときもそうでした。

 

 こうしゃのよこのかわをつなみがきました。じどうがつうがくにつかっていたはしがつなみでおち、かりゅうのいえがなんけんもぎゃくりゅうしてきてとてもこわかったです。〇〇〇しょうは、さいかいふかのうかも。がっくないにすめるいえがないですから。ひなんじょくらしのこどもたちをまいにちみまい、ひとりあんぴのわからないこをさがすひびです。このまえ、こうちょうしつのきんこをあけたら、そつぎょうしょうしょがすこしどろみずでよごれていたけど、こめいぼだけはいちまいもよごれずにのこっていました。あす、〇〇〇〇〇ちゅうをかりて、そつぎょうしきをします。

 

 田舎教師のときにお世話になった先生から、2011年3月22日の早朝に届いたメールです。職員室に水没してしまった携帯がようやく復活。しかし変換キーが効かなくなっているとのこと。だからALL平仮名。生きていてよかった(!)という安堵を覚えるとともに、地震津波と火災に襲われた、わたしの第二の故郷は、容易にはもとの姿に変換できないだろうなと思ったことを覚えています。

 

f:id:CountryTeacher:20191013185201j:plain

水の力って、おそろしい。東北の被災地にて(11)

 

 流れる水のおそろしさは、東北の被災地でイヤというほど見聞きしたので、今回の台風による水害が、平日じゃなくてよかった、と思います。子どもたちが学校にいる状態で河川が氾濫したら、大変だからです。

 台風19号が迫りつつあった11日の金曜日に、大川小訴訟の判決が確定(宮城県石巻市の賠償が確定)しましたが、これからも毎年やって来るであろう大型の台風と、いつ発生するかわからない巨大地震のことを考えると、ちょっと、複雑です。判断力の欠如を招くようなハードな労働環境は全く変わらないのに、責任だけは大きくなっていくような気がするからです。

 

f:id:CountryTeacher:20191013191715j:plain

大川小の目の前にある北上川(18)

 

 2018年に大川小を訪ねたときの写真です。この川の向こうから津波が押し寄せてくるなんて、先生たちも子どもたちも地域住民も、予想できなかっただろうな。だって、震災当時の津波浸水予想図では「大川小は浸水しない」ことになっているし、大川小は避難所に指定されているくらいですから。責任があるとしたら、その予想図をつくった人たちかな、と思います。まぁ、でも「予想」図ですが。

 

f:id:CountryTeacher:20191013192437j:plain

大川小の裏手にある山

 

 この裏山に避難していれば、という話をよく聞くし、私もそう思っていました。でも実際に現地に行ってみると、津波のことなんて全く頭にない先生たちが、100人近くの子どもを連れて「よし、裏山に登ろう!」という判断はしないだろうなと思いました。

 

f:id:CountryTeacher:20191013203522j:plain

石巻市立大川小学校

 

f:id:CountryTeacher:20191013195338j:plain

時間を巻き戻したい

 

 台風19号が通り過ぎる音を聞きながら、国語と理科のテストの採点(持ち帰り仕事!)をしていたところ、長女と次女がパンナコッタをつくって持ってきてくれました。我が子の災害ユートピア的な振る舞いに疲れを癒されつつも、採点の他にも仕事がてんこ盛りで「やれやれ」です。休日くらい、仕事のことは忘れて家族との時間を楽しみたいのですが……。

 

 技術大国だって?
 教育大国だって?

 

 幻想は捨てて、変化を!

 

 

 

 

小学校教員資格認定試験、全員合格? 志はどこに?

 それにしても、私は昔からフシギで仕方がなかった。みんな、なんで大きい方から考えないんだろう? 細かいことから考え始める人が、じつに多いのである。多すぎるのである。そして、それは数学の世界でも当てはまるのである。小学校で習う筆算がその筆頭である。私はこれを、ずっと「ヘンだ、ヘンだ」と思っていたのである。「なんでお尻からチマチマやるの?」と思って、疑問も疑問、大疑問だったのである。
畑村洋太郎『続・直観でわかる数学』岩波書店、2005)

 

 エビフライを尻尾から食べる人はほとんどいません。頭から食べるのが一般的です。ところが学校では足し算にせよ引き算にせよ、筆算をするときにはエビフライの尻尾(一の位)から計算するように教えます。大事なのは頭(大きい位)であるのにもかかわらず。

 

 試しに「534+207」の筆算を百の位から始めてみると?

 

 3~6年生の担任をするときには、この「エビフライの話」をよくします。算数を学ぶというよりも、算数を通して「生き方」や「考え方」を学ぶ授業。黒板にエビフライの絵を描いて「どこから食べますか?」と子どもたちに聞き、続けて534と書いて「一の位と百の位はどちらが大切ですか?」と問う。元ネタは失敗学で有名な畑村洋太郎さんの『続・直観でわかる数学』です。

 

失敗学のすすめ (講談社文庫)

失敗学のすすめ (講談社文庫)

 

  

 エビフライをノートに描いてから「534+207」の筆算を百の位から始めてみると、3年生であれば7人に1人くらいが、6年生であれば多くの子が、畑村さんの本に書かれている「百の位から始める筆算」と同じような方法を考え出します。百の位にある「5+2」から始め、次に十の位の「3+0」、そして一の位の「4+7」を計算し、繰り上がりの「1」は下段の10の位に書いて、最後に「731」とその「10」を足し合わせるという流れです。こんな感じ。


  534
 +207
  731
 + 1 
  741

 

「なんで大きい方から考えないんだろう?」という「エビフライの話」は、ベストセラー『7つの習慣』の著者であるスティーブン・R・コヴィー博士の「バケツの中には大きな石を最初に入れる」(最重要事項を最初にスケジューリングする)という話と似ています。自分にとって最も重要なこと、例えば「我が子と過ごす時間」ということが大きな石だとしたら、その大きな石を先にバケツに入れて、その後に「山で柴刈り」や「川で洗濯」などの小さな石や砂を入れていかないと、いつまで経っても我が子と過ごす時間はとれませんよ、という話です。小さな石や砂を先に入れると、大きな石は入らなくなってしまいますから。

 

7つの習慣-成功には原則があった!

7つの習慣-成功には原則があった!

 

 

 昨日、「教職員支援機構は2019年10月11日、台風19号の影響で小学校教員資格認定試験の二次試験が実施できないため、受験予定者全員を合格にすると公式サイトで発表した」(JーCAST)というニュースが流れました。疑問も疑問、大疑問で、医師免許でも同じことができるのか、と問い詰めたい話です。ミラン・クンデラもびっくりするであろう「教員免許」という存在の耐えられない軽さ。

 

 過去にその試験で落とされた身としては、そのいい加減さに「💢」です。

 

 2000年に小学校教員資格認定試験を受け、2次試験で落とされました。大問が2題しか出ない論述(算数を選択)で、試験が始まってしばらくしてから問題の差し替えが行われるという、「不祥事か?」っていうくらいにいい加減な試験でした。しかも時間の延長はなし。隣の席の受験者が「鉛筆を置いてください」と言われた後も涙ながらに問題を解いていたことを覚えています。ニュースで久し振りに「認定試験」という言葉を見て、あのときの「💢」がよみがえりました。

 

f:id:CountryTeacher:20191012194604j:plain

未来は天国? それとも地獄?  浄土ヶ浜にて(04)

 

 国にとっても、人にとっても、教育は未来です。日本の未来を考えたときに「大きな石」(最重要事項)となるのは、英語やプログラミングではなく、間違いなく「教員の労働環境の整備(働き方改革)」です。

 それにしても、教育のトップにいる人たちに問いたい。なり手がいなくなるくらいめちゃくちゃな環境をそのままにしておいて、全員合格って、それはいったいどんな「志」からきている判断なんだ(?)。働き方改革の第一歩は、

 

 大きな「志」を抱くところから。

 

 そんなこと、直観でわかります。

  

 

続 直観でわかる数学

続 直観でわかる数学

 

『マチネの終わりに』から考える、分人主義をベースとした学校教育のアップデート。

《ドーン》みたいに、六人の人間が、ずっと一緒にいると、その間、たった一種類のディブしか生きられないでしょ? 宇宙空間のストレスは、本当なら、地上のあちこちに、自由にばら撒かれていたはずのディブが、発生する余地がないっていうことが大きいんだ。それは、やっぱり、……苦しいよ。人間は、ディブをそれなりにたくさん抱えて、色んな自分を生きることでバランスが取れてるんだと思う。
平野啓一郎『ドーン』講談社文庫、2012)

 

 ディブというのはディヴィジュアル(分人)のことで、平野啓一郎さんが生み出した造語です。夏目漱石が造ったとされる「新陳代謝」や「無意識」と同様に、世界の見え方を一変させてくれる新しい言葉🎵

 

 個人(individual)から分人(dividual)へ。

 

 人間の基本単位を「個人」ではなく「分人」にアップデートすることを目的にして書いたという、平野さんの『私とは何か』には、《たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である》とあります。対人関係ごとに見せる複数の顔のひとつひとつが、ディブ、すなわち「分人」であるということ。小説&映画『マチネの終わりに』のヒロインである洋子を例にすれば、

 

 蒔野といるときの洋子。
 夫のリチャードといるときの洋子。
 仕事仲間のフィリップといるときの洋子。
 息子のケンといるときの洋子。
 父といるときの洋子。
 母といるときの洋子。

 

 その全ての「分人」を足し合わせたものが洋子というわけです。ディブは《キャラみたいに操作的なものではなく、向かい合った相手との協同的なもの》で、洋子が「蒔野といるときの自分が好き」と思うのであれば、可能な限り、牧野といるときのディブの割合を増やしていけばいい。その割合を増やすことが「蒔野とのディブ」をより豊かなものにしてくれるかどうかはわからないけれど、少なくとも「減らす」或いは「なくす」という選択肢は考えられません。なぜなら《一つでも満更でもないディビジュアルがあれば、そこを足場に生きていける》からです。

 

f:id:CountryTeacher:20191012110921j:plain

文学ワイン会「本の音 夜話」にて(2019.10.10)

 

「分人主義をベースにして書くことで、恋愛小説を更新したかった」。文学ワイン会のときに、平野さんが『マチネの終わりに』について、そう話していました。

 

 学校教育も、分人主義をベースにして更新すればいい。

 

 日本人である平野さんが「分人」という考えに至ったのも、もしかしたら日本の学校教育のアンバランスさが影響しているのかもしれません。アンバランスさというのは、ドーンの描写を借りると次のように表現できるものです。

 〇年△組みたいに、ひとつの学級集団に固定されると、その間、たった一種類のディブしか生きられないでしょ? 教室空間のストレスは、本当なら、学校外のあちこちに、自由にばら撒かれていたはずのディブが、発生する余地がないっていうことが大きいんだ。

 小学校の教員が置かれている状況も同じです。平野啓一郎さんのことも、変形労働時間制のことも、どちらも知らないという、現任校の同僚たち。過労死レベルで働いているから、ほとんどの先生が「学校で過ごすデイブ」しか生きることができなくて、小説を読んだり、政治を考えたりすることができない。学校空間のストレスを何とかしない限り、ドーン(夜明け)は来ないし、神戸の「教員いじめ」のようなこともなくならない。

 

 平野さん曰く「小説は、人間を理解するためのもの」。

 

f:id:CountryTeacher:20191012123050j:plain

ワインショップ・エノテカ 銀座ミレ店のカウンターにて

 

 来年度からはじまる新学習指導要領の実施で、授業のコマ数はさらに増え、子どもも教員も、これまで以上に「学校」に縛り付けられることになります。さらに、変形労働時間制の導入が、事態の悪化に拍車をかけると予想されています。子どもも先生も、もっともっと多くの「ディブ」を「学校外」にもつことができるよう、分人主義に立脚して学校教育をアップデートしてほしい。心からそう思います。

 

 映画『マチネの終わりに』は11月1日にスタート🎵

 

 楽しみだな🎵

 

 

ドーン (講談社文庫)

ドーン (講談社文庫)

 
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 

文学ワイン会「本の音 夜話」で平野啓一郎さんの話を味わった翌日。

 颯太がどことなく不安定なのは、この二週間ほどのことだった。公文の宿題をやらないと香織が叱りつけるので、元々、過熱気味の幼児教育に否定的な城戸は、「足し算なんて、どうせそのうち出来るようになるんだから、今そこまでしてやる必要はない。」と息子を庇い、口論になった。子どもの教育問題が、意外に根深い夫婦の不仲の原因であることは、離婚相談でよく知っていたが、それにしても、この程度の話し合いさえ静かに出来ないというのは真面ではなかった。
平野啓一郎『ある男』文藝春秋、2018)

 

f:id:CountryTeacher:20191011212647j:plain

文学ワイン会で提供されたワイン🎵  サイン入り🎵

 

 昨夜の文学ワイン会「本の音 夜話(ほんのね やわ)」の興奮を抑えきれないまま、今朝、学校に行って「平野啓一郎さんって知っていますか?」と若手からベテランまで合計7人の先生に訊ねたところ、誰一人として知らず、ちょっと決壊しかけました。

 

 私「平野啓一郎さんって、知ってる?」
 若手「えっと、野球選手でしたっけ?」

 

 誰だよ。気になって調べちゃったよ。平野恵一オールスターゲーム新人賞、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞2回、等々。ドーン。意外と名プレーヤーだよ。

 結局、「本の音」の終わりに撮った平野さんとのツーショット写真は誰にも自慢することができず、文学ワイン会での私の質問(お子さんの教育について & 思い出に残っている小学校の先生について)に対する平野さんの回答についても誰とも共有することができず、透明な迷宮にでも入り込んだ気分でした。

 

 お子さんの教育について。

 

 アジアを代表する小説家であると同時に、8歳と6歳のお子さんのパパでもある平野さん。郷里の北九州で「田んぼに入ってただ遊んでいただけ」の子ども時代を送っていたという平野さんが、都会での子育てについてどのように考えているのか、田舎教師ときどき都会教師としては、とても興味がありました。 


 平野さんの回答をざっくり書くと、次のような感じです。

  

 田んぼでただ遊んでいただけの幼少期を、ノスタルジーに浸って「よし」とするわけではないものの、東京で子育てをしていると「そこまでする必要があるのか」と思うことがよくある。未来がどうなっていくのかがこれまで以上にわからない時代に、受験適応のようなテクニカルなことをやっていて、本当に「生きていく力」がつくのかどうか。そういったことを考えてしまう。今はただ、子どもには興味のあることをさせているという段階。どうすればいいかという確信はない。

 

 そこまでする必要があるのか。

 

『ある男』でいうところの《過熱気味の幼児教育に否定的な城戸》といったところでしょうか。空白は満たさなくていい。子どもには、田んぼに入ったり、森で虫をつかまえたりといった、遊び浸るための「空白」が大切だから。そんなメッセージかなと、勝手に解釈していたところ、教育の話題だったためか、思い出したように平野さん曰く「最近、学校の先生からの友達申請が多くて、ちょっと微妙です」云々。

 

 笑い。

 

 ちょっと微妙なのは、平野さんが小学生だったときの先生たちが、微妙だったからかもしれません。平野さんが言うには「よく叩いていた」そうで、パパになり、我が子の友達とも接するようになって、「7歳や8歳の赤の他人の子を、よくもまぁ平気で叩いたりできたものだ」と思うようになった、とのこと。そんなわけで、思い出に残っている小学校の先生については、言葉を濁していました。

 

f:id:CountryTeacher:20191011232754j:plain

スペイン カタルーニャのワイン

 

f:id:CountryTeacher:20191011233044j:plain

フランス ボルドーのワイン

 

 ワインショップ・エノテカ 銀座ミレ店が提供してくれた「マチネの終わりに」をイメージしてセレクトしたというワイン。明日から三連休だし、夜も更けてきたし、また飲みたくなってきました。でも、平野さんが目の前でサインをしてくれた「宝物」なので、もったいなくて開けられません。まだまだ書きたいことがいっぱい。明日のブログも平野ワールドを続けます。

 

 三連休だ🎵

 台風だぁ🌀

 

 

ある男

ある男

 
決壊(上) (新潮文庫)

決壊(上) (新潮文庫)

 
ドーン (講談社文庫)

ドーン (講談社文庫)

 
透明な迷宮 (新潮文庫)

透明な迷宮 (新潮文庫)

 
空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

 

 


 

 

 

 

 

 

平野啓一郎さんの話を味わった夜。文学ワイン会「本の音 夜話」にて。

 トーマス・マンは、「偉大さと大衆との断絶」に言及して、ゲーテが死んだ時には、「大いなる牧羊神の死を悼むニンフたちの嘆きの声ばかりではなく、『ほっ』という安堵の溜息もはっきりと聞こえたのでした。」と語っている。ゲーテでなくとも、天才とは、周囲の者の生にとって、常に幾ばくかはそういうプレッシャーの源であるに違いなかった。
平野啓一郎『マチネの終わりに』毎日新聞出版、2016)

 

 今日は午後から年休をとって、文学ワイン会「本の音 夜話(ほんのね やわ)」に参加し、髭ダン(Official髭男dism)と同じくらい大好きな、小説家の平野啓一郎さんの話を味わってきました。場所は銀座にある「ワインショップ・エノテカ  銀座ミレ店」です。

 

f:id:CountryTeacher:20191012091050j:plain

夢のような時間のはじまり🎵

 

「お子さんの教育について」
「思い出に残っている小学校の先生について」

 

 最初に配られた「平野さんに聞きたいこと」という用紙に、文学とは全く関係のない、職業意識丸出しの上記の質問を書いたところ、何と、インタビュアーが「質問コーナー」のトップで取り上げてくれました~(祝)。 
 もうすぐ日付も変わるし、ワインと平野さんのトークで酔っ払ってもいるので、詳細は明日か明後日のブログに書きます。ちなみに平野さんも「酔っているときは仕事をしないし、SNSにもさわらない」と話していました。

 

 以下、2016年の学級通信「コラボ」より。

 

 GWが始まる前の夜に、代官山の蔦谷書店で行われたミニトーク会に参加してきました。ゲストは平野啓一郎さんです。上記『マチネの終わりに』の表現を借りれば、「神様が戯れに折って投げた紙ひこうきみたいな才能」をもった、「天才」作家さん。どこまでも知的で落ち着いた語り口に、始めから終わりまでずっと「才能があるって、羨ましいなぁ」と思っていました。詩人が句読点でも打つかのように、話題に沿った的確な言葉を並べていくし、同業でも知り合いでもないので、プレッシャーの源にもなりえないし。単純に、尊敬です。

 

 いい本を、ゆっくりと考えながら読むこと。

 

 言葉の力や考える力をつけるためには、或いは明晰さをもつためにはどうすればよいのか。うろ覚えですが、会場からのそのような質問に対して、平野さんは「いい本を、ゆっくりと考えながら読むこと」と答えていました。

 

 いわゆる、スローリーディング。

 

 仕事に子育てに忙しい大人だからこそ、たまにはゆっくりと時間をかけて一冊の良書と向き合い、心を整えていきたいものです。本を読む姿を我が子に見せるという意味でも、大切ですから。

 

 一方で、(平野さんが言っていたわけではないですが、)子どもには多読が求められます。

 

 忙しさが雪崩のごとく襲いかかってきた連休前までの一ヶ月。担任の忙しさをよそに、子どもたちは各教科の授業等を通して、読んだり書いたり、聞いたり話したりする学習に、それぞれよくがんばって取り組んでいました。泳ぐ力をつけるためには泳ぐしかないのと同様に、書いたり話したりする力をつけるためには、書いたり話したりするしかありません。才能の裏に努力あり。読書でいうと、大人には「ゆっくり」が、子どもには「浴びるように」が求められます。経験上、国語に限らず、あらゆる時間を使って日本語のレベルアップを図っていくことが、そして言葉を介したクラスメイト同士のかかわりの量を増やしていくことが、学級づくり(チームビルディング)の「肝」と考えています。来週から始まる家庭訪問の折にでも、子どもたちのがんばりをお伝えすることができればいいなと思います。よろしくお願いします。

 

f:id:CountryTeacher:20191010231430j:plain

店内に飾られていた『マチネの終わりに』のCDと、カッコいいとは~🎵

  

 

 ワインを2本買って、そこに平野さんにサインをしてもらって、しあわせな気分で帰ってきました。台風が接近していますが、雨にも負けず、風にも負けず、明日もがんばれそうです。

 

 おやすみなさい。

 

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに